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桃源郷の思い出(まんがアシスタント時代の記憶)・2

続きです~。

塩山に住んでいたころ、スタッフは男性一人に、女性が三人でした。

先生のおかあさまの姉妹が近くに住んでいて、すぐ下の妹さんがアパートの大家さんをされていました。
それで、私ともう一人のスタッフが、そのアパートを寮として住んでいました。
一番先輩の、わたしと同じ年齢の女性は、寮を出て別の所に部屋を借りていて。
私が来る前までは、その2DKの一軒に二人で暮らしていたようですが、女子同士って、仕事も住まいも一緒だと、ささいな事であわなくなって、人間関係でやめてしまうから、ということで私の時から、上下の部屋一軒ずつで、別々に暮らすことになったのでした。

でも、不思議な事に、その時一緒のアパートにいた彼女は、私の実家の隣の駅の出身でした。
しかも、先生の叔母さんである大家さんも、結婚当初、うちの実家の2つ先の駅に住んでいたそうで。
わざわざ塩山で出会わなくても?って感じでしたが、正直あそこで会わなければ、出会う事は無かった人たちなんですね。

同じ寮の、一年先輩の彼女は、トシは私の3つ下でした。
そして絶対、学生時代に出会ったら友達にはならないタイプで。

上下の部屋に住んでいましたが、お風呂も別々では不経済だし、という事で 交替で沸かして入っていたので、結局ほとんど、毎日一緒。
だから、よくケンカしましたね。
だって、ことごとく意見が違うのですよね。
感覚もね。

けれど、毎日夜中までケンカしてるうちに。
ああ、彼女は虚勢張って生きているんだ、って事がわかってしまって。

私はのほほーん、といい加減に生きているように見えるんだけど、結構芯は強いんですよ。
だからかなりな事があってもメゲない。
弟が5人もいて、母がわりに赤ちゃんの世話もしてたって自負もあるから、まあ私も生意気だったんだけど。

彼女は言う事は正論だし、言葉も強いんだけど、なんていうか武装してるんだなぁというのが、途中で判ってしまったのですよね。
本当は、弱くて自信がないのを、武装して隠しているの。
そういう人って結構多いですよね。

だからきっと、痛かったのでしょうね。
で、すぐケンカになってたんだけど。
分かってしまったら、彼女が向かってきても、翻訳して聞けるようになってしまって。

翻訳して聞けるようになると、結構楽なのですよね。
お陰様で、その後主婦になってからも、子供たちがなんやかや言ってても ああ「好き好き!」って言ってるのねーって、翻訳して聞けるようになりました。
まあ、こっちに都合いいように翻訳してるかもしれないですけれどね。

でも、彼女のお陰で、いろいろ楽しいこともありましたし。
なにしろ、教習所に行けたのは彼女のお陰でしたね。

塩山で免許とった話~

に、突然なりますけど。
ウチの実家は当時誰ひとりとして、免許持ってる人がいなくて。
神奈川の私鉄沿線の、駅近くに住んでいたので、特に車を必要としてなかったですし。
当時は8人乗りの車なんて(たぶん)無かったから、ウチ家族が8人だったので全員乗れないしね。

でも、塩山に住んでいると、免許は必需品なのでした。
なにしろ、当時塩山駅から徒歩30分くらいかかるところに住んでいまして。
バスは夜8時に終バスで、駅まで行かないと、スーパーもなくて。

当時は、まだ山梨県にコンビニが無い時代だったのです。
自転車はありましたが、行きは一度も漕がずに駅に行かれるんですよ。
だけどそれって、帰りはずーっとダラダラの登り坂。

それで、仕事終わりなどに、二人で塩山教習所に通いました。

アトリエでは、誰も甲州弁しゃべる人がいなかったから、それまで山梨に方言があるって知らなかったの。
でもねー、教習所では!!
バリバリ、甲州弁でした~!

私は、神奈川生まれ神奈川育ちで、方言らしい方言無しで育ったせいか、 方言が大ー好きなのです。
特に、子供がしゃべる方言って、と~ってもかわいいですよね。
好きだから、よく研究するしね。

それで、覚えましたよー!
そのうち、考える事が方言になってきて。
いっちょし、やっちょし、食っちょし!ってね。(言うな、やるな、食べるな、です。)
考えるコトバが方言になってくると、だんだん使えるようになり。
こうやって外国語も覚えれば、よかったのねー。(韓国語は、山ほど字幕で見たので、字幕見ると、ちょっと出てくるようになってきましたよ。単語だけだけどね・・そして、見なくなったら、とたんに忘れましたけど)

今は、甲州弁の感覚、すっかりわからなくなってきてしまったけど、しゃべってる人がいると・・ちょっとうつります~!
それに、イントネーションで山梨出身の人は、なんとなくわかるようになりましたねー。

のぶい、とか、しわい、なんて言葉は、どうにも意味不明でしたけど、甲州弁で話しているとだんだん意味わかるようになるので不思議です。


でも教習中も、言葉がわからず、エ~?!って事もありました。

だって、交差点の真ん中で「ブレーキ踏んじょ!ブレーキ踏んじょ!」って横で言うのです。
「踏め!」と言われてると思うでしょ?

甲州弁の「しちょ」は「するな!」なんですよ。
だもんで、わたしがブレーキ踏むから、怒られて。
いや、だって・・踏め!って言ったじゃん?って感じです、笑


で、しっかり仮免も本免も1回ずつ落ちましたが。
ナントカ、無事に免許もとって。

車も彼女のパパが車関係の仕事だったもんで、私の分も一緒に探してもらったのでした。
とにかく、安い中古の軽で、見た目は何でも良いので、エンジンがまともなのを、ってお願いして。

ゴールデンウィークの渋滞のさなかに、神奈川から車を連れて帰ってきました。
わざわざその時期にしたので、時間はかかったけど、運転怖くなかったのです。
それぞれの車に、彼女のパパさんとママが分乗して付き添ってくれたしね。(大変お世話になりました~!)


面白い車でしたよー。
あずき色の、47年型のフロンテクーペ。
当時50年代半ばでしたから、10年までは経ってなかったけど。

370ccだったかな。バイクみたいな軽自動車でした。
2サイクルで、ガソリンと油で走るもんで、すごい音と煙で、私が実家に帰ると、TVに雑音が出るとかで、帰ってきたのがすぐ判る!といわれました。

それに、渋滞すると水温上がってきちゃって、エンストしそうになるし。
エアコンないから、窓全開にしてると自分の排気ガスで排ガス自殺しそうになるしね!
今ではとても走れない車でした。

でも毎回中央高速80キロでかっとんでました。
いえ、それ以上出すとキンコン鳴るし、ハンドルがぶれるのよ!
トラックにあおられるとこわかったなあ。

一応120キロくらいまで出せるみたいだけど、90キロなんて出そうもんなら 後ろの座席からうしろが、取れて飛んでいくんじゃないかと思って、マジに時々手を伸ばして確かめたほど!(笑)

ああ、車の話になるとつきないんだけど...★

ドアのロックがもともと、調子悪くて外からしかロックできなかったんだけど(おかげさまで鍵とじこめなくてすみましたが)
ある時とうとうドアがちゃんと閉まらなくなって。
中のスプリングが折れていたらしく、ドアは閉まるんだけど開いちゃうの。しょうがないからガムテープ貼って出かけたのですが、甲府の酒折って所に行く途中に、クランクになってる道があって、そこ曲がったとたんにドアが わ~って開いちゃって。
さすがに小さな軽だったんで、思わず手を伸ばして押さえましたよ!
あとは ドア押さえながら運転しましたよー。(笑)

夜の中央高速も 怖かったわねー。
ボロの軽だもんで、ヘッドライトが暗いのよ。
なんか回りは真っ暗だから(当時の中央は あまり街灯もなかったの)まるで自転車のライトみたいな感じなの。
誰も走ってないからルームミラーも全部真っ黒でね。

真っ黒な山と、正面にオリオン座が見えて。
カーステレオも無くて、ラジオはよく入らなくて静かで怖かったから、大声で歌って走ってました。
でも、お陰さまで私、現在にいたるまでゴールド免許です。
まあただ単に運がいいってだけですけどね。

塩山のアパートに帰ってきて、車庫入れしてたら側溝に落としたこともあったっけ...。ひどいもんです(泣)ごめんね 車ちゃん。
でも、最後までよく走ってくれました。
座席が低くて、ありんこが見えるくらいだったし、雨が降ると何故か足元 雨漏りするし、暖房のスイッチは、結局神奈川に戻るまで、何年もわからなくて、冬は寒くて、ひざ掛けして、完全防備で運転してました。

ある時、車停めて待ってるときに、スイッチ押したりまわしたりしてたのね。
そしたらグラってなって、思わずスイッチにつかまってひっぱったら・・・!ぼーっ!って。
暖房が出はじめました!まさか、ひっぱるとはね!(笑)

ああ、車の話で、マンガは出て来ずに、長くなっちゃいました。
よかったら、また続き、覗いてくださいね。
                        (つづく)


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