”ことばの焚き火”を感じて、読む。 -対話の海にダイブする・大澤真美編-
ことばの焚き火。
”焚き火に薪をくべながら、ゆっくりと言葉を出してみる。”
それぞれ在り方も個性も違う、4人の著者が織りなす一つの物語。
一人一人と直接会って、対話を重ねた上で読み解く”ことばの焚き火”。
「たろうの世界観で、たろう自身が感じて読んだこと。」
今回は、この本を世に出そうと踊り出した発起人。
大澤真美こと、まみーたさんのパートから。
『対話の海にダイブする』
大澤真美(以後、まみーたさん)のパートは、この言葉から始まる。
いきなり抽象的かつ、掴みづらい。笑
とりあえず、読み進めてみよう。
最初に、この本をまみーたさんから受け取った時。
内容も知らないまま、植本の映像を作ったりして。
まみーたさんのパートを実際に読み進めていけばいくほど、これまで巷で流行っているような”対話本”とは全く毛並みが違うことを肌で感じた。
地球と一体となっていくような感覚。
内とつながり、その奥に在る”いのち”そのものとつながるような感覚。
スマホも持たず、時間も気にせず、京都御所の一角で大木にもたれかかりながら、じっくりゆっくり感じながら読み進めていったからこそ、よりリアルに感じられたのかもしれない。
『いのちの流れ』
まみーたさんが、繰り返し本の中で書いていること。
たろうの解釈でいくと、この「いのち」とは生命すべてが共通して持っている”自然な命の営み”のようなもの。
木は木として、虫は虫として、動物は動物として、人間は人間として。
本来備わっている、「自然のリズム」に従ってただ生きる。
そうすることで、食物連鎖が起きるように全てが自然に調和し、バランスを保ちながら進んでいく。たろうの解釈は、そんな感じ。
現代は、その「いのち」の流れに沿って生きづらい社会になってしまっていて、多くの人が”変化”を恐れ、”不安”や”焦り”に囚われやすい。
けど、その”恐れ”を手放し、「いのち」という社会をも超えた大きな流れに身を任せ始められたとき、世界は本来の在るべき流れの中で生き始める。
そんなメッセージを読みながら受け取った。
だからこそ、まみーたさんは
と書きながら、「人間も、いのちを生きることを全うするためにデザインされてるはずだから、”信頼”してみよう!」と暗に伝えてるのかもしれない。
だからこそ、今の社会が求める常識より、誰かが期待する自分より。
”生命全体から見た、一つの「いのち」として。”
自分は、どう在りたいのかをジャッジすることなく、ただ淡々と模索しながら体現してけば良いような気がする。
『感覚を開く』
たろうにとっての「感覚を開く」。
それはまず、恐れや不安を手放すことから始まる。
「〇〇と思われるんじゃないか」
「□□じゃないといけないんじゃないか。」
そんな周りの物差しから自分を見てしまうと
感覚を開くのは一気に難しくなる。
それよりも、
目の前で起きている”事実”だけを捉え、ジャッジせず、ただ受け入れ、ただ受け止める。まっさらな心と身体と頭でそのまま受け取る。大きな流れの中に自分は存在しているんだと(無条件に)信じる。
すると、自己否定や他者からの批判よりも「自分がどう感じているのか?」をキャッチしやすくなるし、そういう状態になれる環境を見つけることで少しずつ、感覚を開く実体験を積み、実感として体得していける。
そんな風に思う。
『あなたの声』
「誰しもが、何の制限もなく自分の言葉を場に出せる世界。」
そこには、善悪のジャッジもなく、「ただそれぞれが存在する」という事実を受け入れた世界が広がっている。誰もが、そんな風に感覚を解放することを許し合えれば、「いのち」の流れの純度は高まっていく。
それは、ことばだけじゃなく、うごきや、ものづくりなど自分なりの表現で体現し表明することが、その第一歩に繋がっているように感じる。
”あえて”、、、本音を出してみる。そんな感覚。
それを、たろう視点であえて置き換えてみたとすると。
たろうは、みんなにとって「愛のネット」になれればと思っていて。
それも、何も聖人君子になろうって話じゃなくて。
それは、たろう自身のためでもあり、相手や場を同じように大切に想っているからこそ、相違が起きないように。
時に、モヤモヤさせてしまうかもしれない。
時に、喜ばれるかもしれない。
でも、その表面で起きている現象に囚われるのではなく。
たろうは、たろうの世界観で、
たろう村の”常識”で生き続ければいい。
最初は伝わらなくても、批判されたとしても、体現し表明し続ければいつか必ず浸透していく。そしてそれは、たろうの「いのち」の流れがそこに在ると信じられているからこそ(愛し/されているという実感から)。
そんな、表明方法の一つに”対話”がある。
そう感じてる。
『信頼と安心』
そう。
たろうが今やってる「愛に生きる」ことも一人では成し得ない。
「愛し愛され、託し託され、巡り巡らせ」という”相互関係”があってこその生き方であり、それは互いが互いを無条件に信じ、一歩踏み出した時に初めて生まれる営みなんだ。
目には見えないけれど、
確実に存在する「いのち」の流れ。
それは、全てが”ただ在る”ということを無条件に受け入れる。
”愛のネット、無意識・無条件の海にダイブしていくこと。”
たろうがこの周辺の文章を読んでいて、個人的に感じたのは「安心」も「信頼」も今となっては使い古されてしまっているなぁということ。
なにか、この一歩踏み出す行為を違う言葉で言い換えられないか。ましてや新しいことばで表現できないだろうか。そんなことも併せて感じた。
”頭”で考えて分かることばではなく、
”音”や”身体感覚”を通して、分かることば。
そんなことばを生み出せたら。
『対話も人生も、参加型即興ライブ&アートだ!』
形に残らなくても、残っても。そこで体験した出来事や感じたエネルギーは確実に身体に刻み込まれている。そんな一つ一つの積み重ねがそれ以後のその人の人生に少なからず影響を与えていく。
読んでいて、そう思わされた。
もちろん誰かに伝えようと言葉にしたり、作品として残したりするのも大切なんだけれど、それ以上に大切なのは”今ここ”を感じて味わい尽くすこと。
目の前で、どんなエネルギーが放出されているのか。その、言葉にならない言葉さえもちゃんと受け取って身体感覚を伴って、落とし込む。
それこそ、このnoteを書こうと想ったのも、著者の皆さん一人一人と直接会って、彼らのエネルギーやパーソナリティーを感じた上で、改めて「ことばの焚き火」を読みたいと想って。
そこに、まみーたさんがいるような感覚を抱きながら、本と対話するように読み進めていく中で、余白に書き込んでいたものを自分だけのインプットで終わらせずに、一つの形として出してみようと想った。
それは、初めから想定していたものではないし、ただ目の前のこと一つ一つと向き合ってみたからこそ出てきたアイデアで。まさに、即興のライブ&アートで生まれたものだったと思う。
最後に
まみーたさんのパートから始まる、ことばの焚き火。
対話という枠組みを超えて、その奥にある「いのち」の存在に触れながら、マクロとミクロを行ったり来たり。でも、その二つの世界は同時に存在しているし、それぞれが一つに繋がっている。
対話をするときのテクニックや方法論ではなく、概念としての「対話」を見直す良い機会になったと思うし、対話の可能性を感じながら、全ての物事に通ずる”道”のようなものも感じながら読んでいた。
何より、まみーたさんと直接の関わりがあるからこそ、彼女の言い回しや世界観がよりリアルに伝わってきて、1回目に何も分からず読んだ時よりも格段に本と自分自身の解像度は上がる結果となった。
さて、今回はこの辺で。
次回は、誰の対話世界にダイブしようかな。
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