マトリックス

立ち場がないのはとても不安だ

 異世界と行き来しながら敵と戦う。一度見ただけではよく分からなくて、今ウイキであらすじを読んだら、コンピューターが作った世界だったようだ。なんにしても敵は強くて、仮想空間だから何でもありで、銃殺したと思ったらその人は別人だったりして、これはもうどうしたって勝てっこない。ルールが分からないのだから。いま自分が生きている世界では、身体に大きな力を加えれば破壊されて、特に脳を破壊されるとその人は死ぬ。この基本があてはまらなくて、どうしたら敵を倒せるのか、どんな攻撃をされるのか、まったく予測がつかない。ルールを知らない勝負に勝てるわけがない。

もう一つ分からないのが、登場人物たちは現実世界と異空間を行き来できて、現実世界では横たわったまま、異空間で敵とものすごい戦闘を繰り広げることだ。異空間の公衆電話から戻ってこれるような一定のルールがあるみたいだが、この2つの空間があるという世界が、自分の頭ではどうにもついていけない。

中学生の時、国語の教科書に、蝶になった夢を見る漢詩があった。人間か蝶か、どっちが夢で現実かという内容だった。しっかりしろよと思ったが、その後も今まで忘れずにいるくらいだから、なんか心にひっかかるものがあったのだろう。この作品を見て、真っ先にその漢詩が思い出された。

仏教では唯識という。この世は自分の意識でできているという考え方だ。藤子Fの短編にも、子どもの時すべては自分の想像なのではないかと思って怖くなったという一節があったが、唯識の発想は、その思索の深浅に違いはあれ誰もが抱くものだろう。

主人公が、Free your mindで飛べる、と言うセリフがあった。後半の山場となる戦闘シーンでは、信じる、信じている、という単語が何度も出てきた。信じれば勝てる、と鼓舞する。まるで宗教だ。わけの分からない世界に放り込まれ、理屈は通らないけど、とにかく信じることで世界が開けるんだと教え込まれる。

実際のところ、自分の凝り固まった考えから抜け出せず、一歩踏み出すためには、理屈など関係なしに頭ごなしに信じて行動することがカギになることはある。一方で、同じ仏教が「脚下照顧」とも教えている。自分の足元を見つめろ、よって立つところを固めろ、ということだろう。作中に畳の部屋で拳法の稽古をするシーンがあるから、どうしても東洋思想を想起してしまうが、この作品では、足元がふわふわしている感じがぬぐえない。

同じ感覚を覚えたのが、漫画の「デスノート」だった。ノートに名前を書いた人が死ぬという基本ルールでストーリーが進むうちはよかったが、後半になると次から次へと細かいルールが出てきて、ずっと気持ち悪さを抱えながら読んだ記憶がある。

この作品も、主人公が知らない世界に入り込み、いろいろと教えられながら、同時に観客も学んでいくのだが、ルールが分からないままゲームが進んでいく感じは、どうしても苦痛が伴う。昨日ラグビーの試合をテレビでやっていて、前半はルール説明を中心に中継していくと言っていた。まさにそんな感じだ。登場人物たちは本気で試合に臨んで、見ている側は必死にルールを知ろうとする。ルールが分かるまで、試合を楽しむどころではない。

日本語で、立場がない、という表現をなんとなく使ってきたけど、改めて考えれば、生きていく上での基盤がないことを言っていたのだ。立っているところがゆらゆらしていたら、そこから踏み出したり飛び上がったりするのに大いに難儀する。自分の立ち位置を確かめ、立ち場をしっかりとさせることが、生きる上で重要だと知らされた。

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