まなざし
今日の昼の献立は、マッサマンカレーとブロッコリーと海老のサラダだった。
ブロッコリーと海老のサラダは、おれたちの間では定番だが、マッサマンカレーは初めてだった。
有名なカレーなので名前は聞いたことがあったが、美紀が食材とレシピを調べて作るまで、食べる機会がなかった。こういうものなのかと舌を納得させながら食べた。わりとおれの好きな味だった。
食後に煙草を吸おうと、セブンスターのパッケージを振ったが、一本も残っていなかった。
水音をたてながら皿洗いをしている美紀に、
「煙草なくなったから、コンビニ行ってくる」
と、声をかけた。
「わかったー。じゃあさ」
と、屈託のない声が返ってきた。
「スーパーカップ、買ってくるよ」
いつものパターンなので、彼女が頼む前に応えた。
「財布、鞄の中ね。ちょっと手が離せないから、自分で探して」
背を向けたまま、彼女が言った。いつもの流れだ。
勝手知ったる彼女のバッグから、三つ折りのコンパクトな財布を取り出す。彼女のナイロンのバッグは、いつもきちんと同じ物が同じように収められている。
玄関に向かいながら、
「バニラでいいんだよね」
と、いちおう確認した。
「うん。よろしく」
美紀の呑気な声がキッチンから届いた。彼女の声を聞き流すように、スニーカーを履きながらドアを開けて、外廊下に出た。
彼女はどんぶり勘定というのか、おれがコンビニでアイスと一緒に煙草を買っても、文句も言わない。レジでもらったレシートは、財布の札入れに挟んでおくが、彼女はその金額をチェックしているのだろうか。
毎週のように、彼女のアパートで食べるランチも、トータルするとけっこうお金がかかるんじゃないかと思うが、食材費を請求されたこともない。それ以前に、彼女にはたまに生活費を借りるのだが、まともに返したことがなかった。
おれは、大学を中退してから職を転々としていた。今ではすっかり辞め癖がついてしまい、新しい会社に入っても、(おれはいつまでこの職場にいるんだろう)と考えている。
収入が不安定になりがちなので、美紀に融通してもらうことになるのだが、彼女は小言や説教でおれを責めるわけでもなく、玩具のお金でもくれるように、あっさりとおれの手に数枚のお札をわたすのだ。
美紀だって、そんなに稼いではいないだろう。おれと付き合うようになってから、風貌がどんどんもっさりしてくる。どうも、衣類はネットで中古の物を買い、最近では、髪の毛を1000円カットで切っているらしい。出会った頃はワンピースを着たり髪を染めて伸ばしたりしていたが、今や洒落っ気ゼロになってしまった。
美紀が何故おれに懐いているのかわからない。会話をしていても、思考回路がおかしいわけでもないし、馬鹿でもないと思う。集団から逸脱しないように気を配っているし、会社の愚痴や親しい友人の悪口などは、ほとんど聞いたことがない。
「ただいま。帰ったよ」
部屋の奥に声をかけながら、短い廊下を渡る。
ベッドと小さい本棚とローテーブルがある部屋で、ラグの上に座っていた美紀が、満開のチューリップのように無防備な笑顔になった。
ベッドにはクッションがいくつか無造作に置いてあり、ローテーブルにはノートパソコンがのせてある。食事の時は、ノートパソコンは床にどかす。
彼女に財布を返し、レジ袋をわたす。セブンスターは、すでに尻ポケットに捻じ込んである。
美紀は、
「ありがとー」
と、立ち上がりながら袋を受け取り、自分のバニラのスーパーカップをテーブルに、おれの抹茶味のスーパーカップは冷凍庫にしまいに行く。
スプーンを持って戻ってきて、スプーンですこしずつアイスクリームを掬い、口に運びながら、
「カップの底から、無限にアイスが湧いてきたらいいと思わない?」
と言う。
「糖尿病になるよ」
おれは煙草をふかしながら、適当に返事をする。
おれとの付き合いに関していえば、美紀は現実が見えているのか、目を開けたまま夢を見ているのか、彼女の愛情に疑いの気持ちが湧く。自分たちのことなのだが、半ば他人事のように、不安や心配がよぎる。
彼女は父親と仲が悪いらしい。話を聞くと、仲が悪いのではなく、父親が悪いようなのだが。
とにかく理不尽なのだ。
彼女の言動が気にくわないと、怒鳴りつけたり手近なものを思い切り投げつけてくるらしい。顔面に全力で酒瓶を投げ付けられたり、「死んじまえ」だの「出ていけ」だの「お前が稼いでこい」だのと、暴言を吐きつけられ、そのたびに彼女は、「体が硬直し、力ずくで心臓を絞り上げられるような恐怖」を感じたという。
そして、その「気に入らない」ポイントが、日によってころころ変わるのだった。何をしたら怒られるのか、彼女は見当がつかなかった。要は、些細なきっかけに付け込んで、立場の弱いこどもに八つ当たりをしていたのだろう。彼女は実家にいた頃、常に極度の緊張状態におかれていたという。
彼女が言うには、父親の態度は、三割が無視で、七割が暴力的な挙動だった。ほんの一パーセントも、普通にコミュニケーションがとれたことがなかったという。
そういう環境で育ったこどもによくあるように、彼女も、自分が悪いから父親に怒られるのだと、自責の念に囚われていた。頭では違うと理解していても、親元を離れた今でも、その思い込みが心に根付いているようだ。
母親もどこかおかしくて、彼女が怒鳴られたり何かを投げ付けられたりしても、まったく意に介さず、平然とテレビを見ていたり、だらんと口を開けたまま食事を咀嚼していたり、というようだったらしい。
おれがベッドに寝転ぶと、彼女がやってきて、「ぬくぬく」とふざけた調子で口にしながら、傍らにぴったりくっついてくる。体を丸めて、おれに抱きついてくる。腕も脚も使って、軟体動物が絡みつくように。
おれはしがみつかれたまま、じっと動かないでいる。振りほどいたら、彼女が傷つくことはわかっている。
お金の問題だけでなく、おれは当面、美紀と別れるつもりはない。こういう時、
(やっぱり生育環境のせいかなあ)
と、思う。
いつだったか、おれのアパートに彼女が泊まった晩があった。おれの部屋は彼女の部屋より狭いし、足の踏み場もないほど散らかっているし、トイレも故障しやすいので、ふだん、あまりこちらへは来ない。
おれは未明に目を覚ました。喉が渇いていた。
起き上がって水を飲みにいこうか、それともこのまま二度寝しようかと迷い、なんとなく彼女の方に寝返りを打とうとして、息を飲んだ。
暗闇の中で、彼女の目が光っていた。どこかに光源があり。それが瞳に射していたのだろう。涙を溜めていてそれが反射して、というわけではない。何百年もの間、濁った沼の底から水面を見上げ、助けを求めることもとっくに諦めたかのような、醒めて乾いた視線だった。
腕を体の上に差し伸べ、てのひらを顔にかざすようにして並べ、てのひらを凝視していた。
いつから起きていたのか、はっきりと目を開けていた。一人で抱え込むには深すぎる傷や、神経が削られる環境に耐えることを強いられ、今なおそれが継続しいている、昏い眼差しだった。
写真のネガのような、おれが知らなかった彼女の顔だった。
彼女はあんなふうに、みんなが寝静まっている時間に、父親のことを思い出したり、おれのことで悩んだり、不安定な将来に希望を見失ったりしているのだろうか。
おれは自然な態を装って、反対向きに寝返りを打った。何かを感じたのか、彼女はそっと腕を下したようだった。
それでも、おれは毎週、美紀のアパートに通う。
気の利いた料理を出してもらったり、すっかりお洒落をする意思を切り捨てた美紀に、たまにお金の無心をしたり、彼女のお金で煙草やスーパーカップを買ったりする。彼女が嬉しそうにアイスを食べるのを、「こどもみたいだ」と、おれは茶化したりするのだ。
沼底から空を見上げる彼女も、量があるわりには安いアイスを無邪気に食べる彼女も、両方とも美紀なのだ。
彼女はこの生活に変化を起こそうとはしない。彼女がこの関係性を望んでいる。
おれは、二人の仲が腐っていかなければいいと願っている。
一年先のことまでは想像できない。しかし、たぶん、ほぼ確実に、来週も再来週も、おれは美紀に会いに彼女のアパートを訪れるのだ。おれか美紀が心変わりして「もうやめよう」と終止符を打たない限り、美紀とは続いていくのだろう。
それも別に、悪くはない。