三度目のお別れ
舜介が私が働いてる美容院に髪を切りに来たのは、ほぼ当たる可能性のないくじに当選したような偶然だった。この店は、派手ではないが昔から人気の街にある。彼は予約をしていたわけでもなく、何かの用事を済ませたあとにこの店を見かけ、髪も伸びてきたし時間もあるので、ここでカットしようと気紛れに決めただけだった。チェアに座って待たされているあいだ、私がほかのお客さんの髪にドライヤーをかけていることにも、しばらく気付かなかった。
鏡に映る彼の苦々しい顔を見ながら髪をカットするのは、こちらもやりにくい。あえて私は、十年振りにばったり出くわした、高校時代の友人のひとりのように、気安く話しかけていた。
「大学卒業してから、ずっと東京だよね?」
「……」
「私は専門学校出て、すぐ東京来たよ」
「……」
「仕事、なにやってるの?」
舜介は、痰でも吐くような、くぐもった咳払いをした。おまえには関係ない、という意思表示だろう。私は溜息を吐いた。
「あのさあ、いつまでも昔のことにこだわるのやめてよ。もう過ぎたことなんだから」
うんざりしながら言うと、彼は険のある、淀んだ目つきで睨んできた。
「……自分のしたこと憶えてる?」
なんのことだろうかと、シザーを止めずに考えた。むしろ、彼に恨みがあるのは私のほうじゃないのか。
「俺、一生つきまとわれるんじゃないかってビビッてたからな」
私はそんなに厭悪されていたのか。今日まで知らなかった。なぜそれほどと、首を傾げた。
舜介は高校の同級生だった。彼は背もわりと高く、目鼻立ちがはっきりしていて、写真のように静止していれば悪くないのに、笑うと目がたれて細くなり、細長い手足の動作が飄々としているというか、なんとなくクネクネした、ちょっと惜しい人だった
彼のどこに惹かれたか。彼は、ほわんとした卵色の靄に包まれているようだったのだ。甘えさせてあげたくなるような、放っておけなくなるような温かそうな空気感が、彼にまとわりついていた。それを感じていたのは、私以外にはいなかっただろう。
二年に進級して、同じクラスになった。友だちとそんな話題になって、彼が気になってることを言ってみると、「瑛美、変わってる」と本気で引かれた。
舜介とはまともに喋ったこともなかったが、放課後のひとけのない階段の踊り場で、私は告白した。梅雨なのか夏なのかはっきりしない蒸し暑い午後で、汗が滲んでくるのが必死なようで恥ずかしかった。彼は黙って聞いていたが、「ちょっと考えさせて」といったん持ち帰り、五日後の昼休みに音楽室に連れて行かれ、「あれ、いいよ」と淡泊に承諾された。
「最後のやつ」
ケープを巻かれ、椅子に固定された状態の彼は、ぶすぶすと燻る薪のようだった。
「最後?」
別れ話の通話がかかってきたのは、すでに秋も深まりつつある季節だった。彼は一方的に結論を急いだ。「もう俺、無理。ほんといい加減にして。俺のこと全部忘れて」と、そんな感じだった。私も、もういろいろ無理だった。通話を切られたあと、最期まで私は我慢させられるんだなと自己憐憫でいっぱいになり、しばらくグスグスと泣いた。
舜介は楽しい人だった。私を舐めているわけでも暴力的なわけでも理想が高すぎるわけでもなく、好ましい人といえばそうだった。しかし例えるなら、たらんとぶら下がった一枚の布のようなのだ。押しても引いてもてろんてろんと、どこまでも手応えがない。私は彼に贈りたいものがたくさんあった。彼はそれらをあっさりと受け取り、あとにはなにも残らなかった。すぐ近くにいるのに、私の伸ばす手は彼の心にさわれない。根拠不明の自信に満ちていた私は、彼もいずれは自分を好きになるはず、同じ気持ちになるはずと信じていた。しかし、さまざまなかたちで好意を示し続けても彼はのらりくらりとそれを躱して、私たちはどこまでも平行線を辿るだけなのだった。私のプライドは無残に削られ、日を追うごとに疲弊していった。
「あのLINE、マジで怖かった。いつまでこのままなのとか、どうして平気なのとか、利用してるだけだよねとか、俺が思い通りにならないからって、なんで俺、脅されてんの? って。そっちが勝手にやってて、勝手に傷ついてたんだよね?」
そう、そういえばそうだった。通話があった前日、私は長文LINEで、初めて彼に毒を吐きまくったのだ。三件目までは既読がついたが、それ以降は未読のままだった。まるで蜘蛛の糸で搦め捕りながら、ねちねちとナイフで肌をこそげるような内容だったと思う。
「あー、はいはい。あれねー。思い出した」
「ストーカーになるんじゃないか、下手したら刺されるんじゃないかって、危機を感じたよ」
「あのLINE送ってた時点で、私たちってもう終わってたよね」
積もり積もった恨みをぶつけても、すでに舜介は、すべて投げ出して遥か彼方へ逃げ切っていたのだ。私に見えていたのはただの残像で、そこにあったのは、生き物の棲めない洞穴のような空白でしかなかったのだ。
そして、翌日の、スマホごしに放たれた私を激烈に拒絶する声。あれは、二段階にお別れがあったということになるのだろうか。
次々と当時の記憶が鮮明になってきて、恥ずかしさと開き直りでニヤニヤ笑いが込み上げてきた。
「あれねー。あーやだ、思い出したくなかった」
ニヤつきながら髪のボリュームを確かめていると、
「なにをひとりで喜んでるの」
と、舜介が、冷静につっこみを入れた。
舜介のカットはそろそろ仕上がりそうだった。店内にはさまざまな音が渦巻いていた。お客さんとスタッフの話し声、水音、タブレットから漏れる音声、ドライヤーの空気の噴射。
彼はいつのまにか、鏡に映る私の指の動きを眺めていた。
舜介の髪をドライヤーで乾かし、ワックスでセットして、ケープを外した。支払いを済ませた彼を、私は自動ドアまで送った。
「根に持たれてなくてよかったよ」
彼は黒いリュックを背負った。
「あれはね、私もやりすぎた」
舜介の態度がずいぶん朗らかになったので、私は安堵した。あんな険悪な状態のまま別れたら、しばらく心が消化不良を起こす。
彼は目を伏せて、
「俺、自分が変わっていくのが気持ち悪かったんだ」
と、言った。
「情が湧いたりして、本来の自分じゃなくなるのが気持ち悪くて。瑛美には、少しは悪かったという気持ちはある」
彼は、薄く開いた唇を動かさずに、歯切れ悪く言った。
私にはその台詞の意味が、数秒間、理解できなかった。
それを飲み込んだ瞬間、は? なにそれ? という疑問詞が、舜介を張り倒す勢いで喉から飛び出しそうになった。
それはつまり、自分の周囲にシャッターを張り巡らせて、あえて私を近付かせず自分からも近寄らず、私を好きにもならないように防御していたってこと? それが正直な本音だったら、私がどれだけ頑張っても、無意味以外のなんでもなかったじゃない? 私は絶句した。
「髪、切ってくれてありがとう」
彼は、そんな殊勝なことを言った。ありがとうなんて、昔は言ってくれたことなかったのに。
「よかった。気に入ってもらえたみたいで」
私は反射的に、口先だけで応えた。そうなんだよね。恋愛って、返礼性の法則が存在しにくいものなんだよね。うん、知ってるよ。
「じゃあね。元気で」
彼は軽く手を振った。私も口角を上げて、指をパキッと伸ばして手を振った。彼は躊躇することなく私に背を向けた。
彼と別れるのは、これで三度目になるのか。これを本物の最後にしよう。もし次に遇うことがあったら、知らないふりをする。私はひとりで決心した。
彼の後ろ姿が通行人に紛れながら遠ざかっていくのを眺めていると、ガラスの自動ドアがレールを滑ってきた。透明なガラスがするすると内側と外側を分割していき、カタンとちいさく振動して停止した。
学校から徒歩七、八分の場所にコンビニがあった。同じ学校の生徒があまり姿を見せない、場末感のあるコンビニだった。夏休みに入っていたけれど、夕方、私たちはそのコンビニで待ち合わせをした。
舜介はレジの前に陳列されていた花火のセットを突発的に掴み、ためらいもなく、そのけばけばしい平たい袋とライターをレジに持って行った。
彼は店の駐車場で座り込み、袋から花火を出して、
「これ、やろ」
と、私を見上げた。
彼は私が持った花火の先にライターの火を点け、噴き出した火花を自分の花火に移し、左手にも花火を持って、その花火にもキラキラした火を移した。
午後五時ごろだったがまだ太陽が眩しく、空は底なしに深いプールのようだった。私たちは花火から花火へと煌めきを継ぎ足し、赤や金色の燃える雫を撒き散らした。しかし、昼間のような明るさで火花はあまり目立たず、売り物なのに湿気ていたのか、しだいに白っぽい煙がもうもうと立ち込めてきた。
火薬の匂いと煙のせいで、私たちは咳込んだ。あほなほど煙ばかり出るので、舜介も私も、むせながら笑ってしまった。
そうしているうちに、コンビニから走り出てきたスタッフの中年女性に、ここで花火をするなと怒られた。
私は、まあこうなるよなと、ヒステリックに激高する彼女をそれとなく避け、彼女がキレながら店に戻って行くのを横目で見届けた。
舜介は目を細くして無責任に笑いながら、燃え殻の棒を拾い、それをまだ残りがある花火の袋に入れ始めた。
私もしゃがんで、あーだるあーうざなどと文句を言いながらゴミを拾い集めた。
「ねえこの花火、ほんとに消えてるんでしょうね?」
そう顔を上げると、すぐそこに舜介の嬉しそうな顔があった。彼は「しょーもねー」というように、共犯者っぽい苦笑いを私に向けた。
バカなことしてたなあと、あの白昼夢のように明るい夕刻を想い出した。私たちは調子に乗っていた。けれど、だからこそ、楽しかった。そんなことも確かにあったのだ。
あの記憶、削除するか、保存しておくか。
私は腕時計に視線を落とした。まもなく、予約のお客さんが来店する時間だった。いつも指名してくれる、今は黒髪セミロングにしている子だ。
私は店内に引き返した。変えられないものに執着してもしかたない。だけど、きっとまた思い出してしまうんだろう。そうだとしても、そのたびに、彼にまつわる記憶もこの忌々しさも、ぼやけて薄れていけばいい。そしていつのまにかに消えてしまえいいのだ。