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私が環境問題の「加害者」だとしてもなお環境技術者を目指して勉強する理由。

私の過去の清算は、誰かの未来を消費している?

新学期の始まりも近づき、とうとう明日が実家にいる最終日です。

今日は実家を離れる前にやっておきたかった片付けをしました。

ここ数年で特に実家にモノが増えてきてしまったため、親から「処分できるものは処分していってほしい」と言われているので。

大学受験が終わって2年ほど経ちますが、実家には高校課程の参考書が少し残っています。そして、大学に合格してから授業の補助のために購入したテキストも、まだほとんどそのまま。


少し紙がくたびれてしまった参考書を一冊ずつ手に取りながら、処分するかどうかを考えました。


そうしていると、私が初めてその本を手に取ったときのことが思い出されます。

これは現役で大学に合格したばかりのとき。
こっちは……その大学を辞めてから買ったやつ。


すべて、今になっては過ぎたことだと思っていました。

これを捨てることで私の過去は清算されるのかな、と、ふと考えてしまいました。


すると、自然と次に想像したのは、「誰かの未来」についてでした。

片付けをするときにはいつも環境問題のことが脳裏によぎり、モノを捨てる責任とそれを負う覚悟のことを考えさせられます。

これを捨てれば私の過去は清算されるかもしれないけれど、「誰か」の未来を奪うことがあっても不思議じゃない。


……「誰か」って、誰?

環境問題の、加害者。

近年、何かと話題になる環境問題。

地球温暖化とか、資源が枯渇するとか、想像すればいくらでもやるべきことは出てくるでしょう。

私は大学で環境科学などを勉強していて、勿論これらの問題を解決していくことは重要だと考えています。

しかし、「今の自分が在ることが誰かの未来を消費してきたことによって成り立っている」というふうに考えてしまうと、自分が加害者であるような気持ちになります。

そして、そんな自分がしれっと「はやり」に乗っかって環境問題の解決を叫ぶのは馬鹿馬鹿しくはないのか、立場を勘違いしているんじゃないのか、と思うことがしょっちゅうです。

大学で専攻するくらい環境に関心のある若者でもそんなふうに思うのか、と思われているかもしれません。

ですが、学べば学ぶほど、現代社会で環境問題の加害者と全くならずに生きるのは今のところ不可能だと思うようになり、嫌になることもしばしばあるのです。


ところで、環境という言葉は「主体を取り巻く客体」というように説明でき、この主体と客体は相互作用します。

つまり、主体を人間としたとき、過去に私たちが客体に与えた作用がいま反作用として返ってこようとしている、というのが環境問題と現在呼ばれているものだといえるでしょう。

ゆえに、人間が環境に作用を与えたという点では、人間を加害者というのは間違いではないのかもしれません。

環境からの反作用はその作用に対する「サンクション」なのでしょうか。

加害者は、その制裁を受けるのをただ待つことしか許されないのでしょうか。

……あんなことを言っておきながらなんですが、その考え方はちょっと悲観的すぎるのではないかな、と私は思うのです。


加害者であることを自覚しながらこんなことを考えているなんて奇妙ですが、環境問題を考えるうえでは、「自分の立場はひとつではない」ということを前提にしてよいのではないかと私は思っています。

環境問題の構図というのは「加害者vs被害者」ではなく、「加害者=被害者」であるからです。

私が「誰か」の未来を奪う加害者であるというのなら、その「誰か」というのには「私」だって含まれているのです。

これは「自業自得」という意味ではありません。

「私は被害者でもある、ということを自覚するのにはちゃんと意味がある」という意味です。

つまり、環境問題を「私は加害者だし当然の報いだ、諦めよう」とばかり思うのではなく、「こんなんで未来が奪われるなんてごめんだ!」みたいな被害者風のマインドを合わせて持つことが私の勉強の原動力になっているのです。

自分が全くの加害者だという意識を持っていると、環境問題に真剣に取り組もうとしている他人を見たときに「誰だって加害者なのに、あんなの偽善じゃないか」なんて考えてしまうこともありました。
また、自分が偽善だと思われるのも嫌で、なんとなく雰囲気に流されエコフレンドリーにアンチな姿勢をとってしまったりというのも、ありました。

でも、加害者をやめられないことを自覚しながら環境問題に取り組むことは本当に間違いなのでしょうか?

今の私なら、それは違うと言い切ります。

未来を動かせるのは、やらない偽善ではなく、やる偽善だからです。

加害者の自覚を持つ私だからこそできる発想や着眼を活かせる可能性はゼロではないのです。

環境問題への向き合い方。

話は戻りますが、私は、実家に残された本を処分します。

本当に環境のことを考えているなら中古で売ってゴミを減らせよ、という意見があるかもしれません。

しかし私は、本を売る準備をする時間が数分でもあるのなら、それを勉強や研究に回し、まだまだ漠然としている環境問題をもっと現実的な問題として扱える未来を今に近づけるために闘いたいのです。

現状、環境問題への向き合い方として100%正解といえるものはないと思います。

ですが、それゆえに、完全に間違った向き合い方というのもないのではないのでしょうか。


もし、私と同じように加害者の自覚があって、環境問題への取り組みを躊躇っている方がいたら。

加害者の自覚があるからこそ、私は、あなたなりの環境問題への向き合い方を尊重します。

一人一人、環境問題に向き合う理由も違うのだから、それでいいと思います。

「自分の未来のためにできること、ちょっと考えてみようかな」と思っていただけたら、とても嬉しいです。

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