坐禅普及への情熱

2023/04/19(水)

6回目 【日本へ帰国】

【要約】
帰国後、道元禅師は『普勧坐禅儀』と『正法眼蔵』の『弁道話』を著し、坐禅の心構えや作法を伝えました。1233年には京都に興聖寺を開設し、本格的な坐禅修行を行いながら人々にも勧めました。名声が高まり弟子も増えましたが、興聖寺への外圧も強まりました。如浄禅師の教えを受け、波多野義重の勧めで越前へ移り、傘松峰大仏寺を建立しました。後に永平寺と改称されました。1247年、北条時頼の要請で鎌倉へ赴き、半年間武士を含む多くの人々に教えを広めました。

【日本へ帰国】
1.帰国後の著作活動
・帰国後直ちに、道元禅師は『普勧坐禅儀』を著述
・この著作では、坐禅の心構えや作法について詳しく説明
・さらに、禅の精神性を深く掘り下げた『正法眼蔵』の最初の巻『弁道話』を
 著述

2.興聖寺の開創と坐禅の普及
・1233年:34歳のとき、道元禅師は京都の深草に興聖寺を開創
・ここで坐禅堂を建立し、穏やかな環境で坐禅修行を続ける
・また、多くの人々に坐禅の素晴らしさを伝え、広く勧める活動を行う

3.評判の広がりと外圧の増大
・道元禅師の名声が高まり、弟子の数も次第に増える
・しかし、僧団が大きくなるにつれ、興聖寺への外圧が強まることとなる

4.越前の山中への移住と新たな修行の地
・如浄禅師の教えと波多野義重の勧めを受け、越前(福井県)の山中に移住す
 る決断を下す
・新たな修行の地である傘松峰大仏寺を建立し、後に吉祥山永平寺と改称
・ここで更なる坐禅修行と教えの普及に努める

5.鎌倉への特請と教化の活動
・1247年(宝治元年):執権北条時頼の招聘を受け、波多野義重の頼みもあり
 鎌倉に赴く
・半年間の短期間ではあるが、武士をはじめとする多くの人々に教え、心を豊
 かにする
・道元禅師の教えは、鎌倉時代の人々に大きな影響を与え、その後も広く伝え
 られることとなる

【まとめ】
帰国後、道元禅師は『普勧坐禅儀』と『正法眼蔵』の『弁道話』を著し、坐禅の心構えや作法を伝えました。1233年には京都に興聖寺を開設し、本格的な坐禅修行を行いながら人々にも勧めました。名声が高まり弟子も増えましたが、興聖寺への外圧も強まりました。如浄禅師の教えを受け、波多野義重の勧めで越前へ移り、傘松峰大仏寺を建立しました。後に永平寺と改称されました。1247年、北条時頼の要請で鎌倉へ赴き、半年間武士を含む多くの人々に教えを広めました。

【追記】
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