
優しい人
人に優しくありたい。常日頃そう思っている。でも難しいもので、やりすぎると不審がられるし「何でそんなに優しいんですか」と聞かれたりする。 残念なことに、私は神様のように誰にでも平等に優しくしているわけではないし、打算的な部分も大いにある。
友人に「あなたは気を使っている範囲が広い」と言われたことがある。仲のいい友達やよく交流のあるフォロワーさん以外の、もっと距離の遠い人にも気を使っていると言うのだ。確かにそうだが、当たり前じゃないかと思った。
親しい人と知らない人の両方に嫌なことを言われたら、知らない人に言われる方がつらい。もちろん親しい人からの言葉も傷つくが、親しいからこそ私の外側だけでなく内側を見てどうしても合わなかったんだろうなと思う。しかし、知らない人は私の外側しか知らない。外側しか知らない人に嫌われるということは、一番表に見せている姿や言動が駄目だということだ。
逆に、親しい人と知らない人に褒められる場合、知らない人に褒められる方が説得力がある。ちょっとした自惚れだが、親しい人には「有澤おからのことが好き」というフィルターがある。距離が近ければ近いほどそれは分厚くなり、行き過ぎれば「何をしてもかわいい」になる。もしかしたら多少の忖度(善意)もあるかもしれない。知らない人にはフィルターはないし、忖度する必要もない。それなのにわざわざ知らない人たちは「素敵ですね」と伝える労力を使っている。知らない人、もっと私を褒めてください。いいねとRTとリプライをください。DMでもいいです。
話が逸れたが、親しい人にも優しくして、知らない人にも気を使う方がお互いに不幸にならない。もちろんこの世には自分中心の人、自分が幸せだったらいい人もいるがそれはもう仕方がない。私だって「みんなで幸せになろうね」という学級会か怪しげな宗教のような思考ではない。優しくされたいから優しくするのだ。
あまりにも打算的すぎて自分でも「うわきも…」と思う。尚且つ、打算的である自覚があるだけいいと思っている。一番初めのnoteの記事で「喋るのが下手くそな自覚があるだけまだマシ」という話をしたが、基本的に私はこのスタンスらしい。「うわきも…」ポイント加点だ。
「優しくされたいから優しくする」ということは言い換えれば「優しくしたら優しくしてもらえる」ということだ。私はこの世のみんなだいたい善人だと、善人であってほしいふんわり性善説を唱えているのでこの考えが成り立つ。しかし実際には悪人、とまで言わなくても私とそりが合わない人もいる。「優しくする」の基準だって人それぞれで、関係性や状況によっても変わる。優しくしたから優しくしてください。なんて馬鹿なこと言えるわけがないのだが、そもそも「優しくされなくても全員が全員に優しかったらなんの問題もないだろ」とすら思う。「うわきも…」ポイント右肩上がりである。
結論、私がどれだけ人に優しくしても優しくしてもらえるとは限らない。でもそれは当たり前で、おそらくどうしようもないことだ。だからといって「じゃあ私は人に優しくしません」とはならない。自分が優しくされて嬉しいように、きっと私以外の人もそうだと思っているからだ。だから距離感関係なく大概の人には優しくしたいし、できる限りの気遣いだとか慮る気持ちを持っていたい。
この記事を書くことで、私がなかなか「うわきも…」なことを自白してしまったのだが、どうか寛大な心で「またなんか言ってんな」ぐらいの気持ちでいてほしい。優しくしてとは言わないので。