翌々日の昼過ぎ、私は犬を連れて散歩に出かけた。目指すはコブシの花々だ。近所の河原にコブシの並木道があったことを思い出し、そちらへ下ることにする。とはいえあえて目的と定めずとも、どこへ行ってもコブシにつきあたる、そんな季節である。コブシはやはり、この白さだからいい。桜やレンギョウなど、いかにも春がおめかししたような可愛らしい花々もいいが、青空に映える白の美しさにこそ心が洗われる気がする。
河原におりたち、コブシの並木道にそって歩きだす。コブシの梢の輪郭は青空を背にしていっそう際立ち、雲と一緒になって真白い花々もぽつぽつと光る。面を上げてコブシを見上げながら歩く道中だったが、中には気分屋のコブシもおり、太く立派な一枝の先を私の目の高さにまで差し出してくれていた。そのおかげで私はほとんど初めて、咲き誇るコブシの花々をすみずみまで観察することができたのだが、コブシを一口に「白」と言い表していたこれまでの私はどうやら浅はかだったようだ。
コブシの花弁の色づきは、真白であって真白でない。何とも言いえぬ色のあわいがある。淡い黄金や紅色をその花びらに一すじ二すじ忍ばせて、萼から出ずる褐色がかった葉の色がそのあわいに調和をもたらしている。つぼみは銀色の産毛が生えており、そのため緑の楕円には不思議な鈍さの光沢があった。世の色は常に美しく、そして少し複雑にできているというわけだ。
「ワタシをよんで」
はて。気にかかったがゆえにこの声が聞こえたのか、あるいはこの声が聞こえたがゆえにコブシの花が気にかかったのか。それはどちらでもいいのだが、いずれにせよ、私はこのコブシ(たち)に呼び止められた。であるからには耳を澄ませ、これらのことばを読もうとしなくては。蝸牛の殻と居合わせたときのように、じいと見つめて対象に向き合えば自然と導かれてまた聞こえてくるに違いない。そう決めつけて、私はコブシを見上げ、目と耳をよくよく澄ませて立ち尽くしたのである。風がよく通っていた。
ところがである。どうもいけない。この気候のせいだろうか、私は全く集中することができなかった。きっとまだ私には読むためのまじめさが足りないのだ。まじめで在れよと頑なに暗示をかけてみるのだが、菅の青さをふむときのやわらかな春の感触、太陽、浮かぶ雲のゆるやかな速度、足元から立ち上る春咲きの花の香と土の匂いにいちいち幸せを覚え、さらには向こう岸の桜並木もつぼみをつけ始めているのをみとめてすっかり気がそぞろになる。
何より、コブシの無邪気につられてしまうのだ。思うがままに奔放に枝をのばし、あちこちに顔を向けるコブシの白き花々はそちらこちらに興味がある幼い子どものようで、とにかく微笑ましい。青空の下、春の陽気、その光の粒をおやつにしながらぺちゃくちゃと楽しげに話しているコブシたち。楽しげな雰囲気に引きずられ、私も心ごと浮き足だつ。これでは君を読めないじゃないか!
…いや、そもそも真摯であることと、まじめであることは同義ではないな。そう思い直した私は、己の真剣さをしばらく放っておくことにした。このようないい天気のなか、脇目もふらずただコブシひとつと頑なであるのも心に毒だ。私は甘んじて、この春がもたらす全ての幸福を楽しみ尽くすことにした。
「ワタシをよんで」
コブシの声に追われながら川沿いの並木をつかず離れず歩きつづける。そのうち、私は町の中心部の橋近くまで来ていた。橋を行きかう人々を河原の欄干下から見上げる。老いも若きもカラフルな色合いの衣服に身を包み、軽やかな布地の裾がひらひらと春風になびく。年度始めだからだろうか、昼前だというのに小学生の男のこたちが向こう岸へと駆けて行く。
しばらく足を止めていたが、相棒の犬に声をかけて私は再び歩き出した。ぼうぼうと草が茂る橋の下を通り、日なたへ出る。すると、パチンと頭上で音がした。それと前後するようにぴーーぃいぴーぃとけたたましい声もする。目で追わずともわかる。この声はヒヨドリだ。おそらくは梢にとまっていたヒヨドリが枝先を蹴って飛びたったのだろう。ぶらんぶらんと慣性に任せてゆれる枝を見止めれば、やはりここにも満開のコブシである。
そうだ、コブシたち。楽しげにならぶこの花々は何かに似ている。冬の終わり、いまだつぼみならざる枝先の緑子は早くも喜びの種を隠し持ち。春への期待を食み蓄えながら、緑子はとめどなくはち切れんばかりのふくらみとなり、つぼみとなり、そうしてようやく花ひらく。開花の瞬間、澄んだ空気を振わせるその音は、はたしてどのような音だろうか。
コブシの背後にはちょうど電線がのびていて、その五線譜にコブシの花々がまるで音符のように位置づいていた。枝をゆらしては、何か歌を歌い、音を奏でているみたいだ。真白き音符。16分音符、トリルのような軽やかな連なりがそれぞれの花からこぼれて音が奏でられる。
「ワタシをよんで」
ああ、そうか。てっきり言葉がふってくるものだと思いきや、彼らの言葉は音楽だった。
電線に弾ける白い音符はおそらくはピアノの旋律。コンツェルト。粒だつ音。
「春だ!」
「春だ!」
「春だ!」
あえて、私が言葉に置きなおす必要もないだだろうが、コブシたちの音楽は確かにこう歌っていた。
彼らの無垢な喜びの音楽。いい春だ。