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【論考】もう共感しなくても良いですか?


はじめに

「共感」――それは長らく、他者と心を通わせ、社会をより良くするための美徳として語られてきた。NPOや地域プロジェクトは、時に人々の「共感」に訴えかける「感動ストーリー」を武器に人々の参加を呼びかける。

しかし、近年、私たちはなぜか他人の「いい話」を聴くたび、息切れし、疲れを感じることが増えている。これは、「共感疲労」とも呼ばれる現象だ。多様な社会課題に触れるたびに、心が磨耗し、積極的に関わる意欲が萎えてしまう。なぜこんなことが起こるのか?そして、この疲労をどう乗り越えればよいのだろうか?

共感社会の問題―思いやりの光と影

「共感」、すなわち他者の苦痛や状況に心理的な共振を起こす現象のことだ。この表現は英語圏ではさらに「Empathy,Sympathy,Compassion」といった概念で分類される。

エンパシーとシンパシーについてはブレイディみかこさんの著作「僕はイエローでホワイトでちょっとブルー」で紹介されメディアでも取り上げられることが多い。

シンパシーというのは、自分に近い感覚を持つ相手に対し、感情とともに内側から自然に湧いてくる同情のことです。一方でエンパシーとは、湧き上がる感情に判断力を曇らせることなく、意見や関心の合わない他者であっても、その人の感情や経験などを理解しようと、自発的に習得する「能力」のことなんです。

ブレイディみかこ「他者理解のエンパシーが自己の可能性も開く」
https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/050800242/051700005/

瞬間的に自分の中に同じ痛みや苦しみを見出し相手と同じ立場になるシンパシー、理知的に構造や環境に対する情報を収集し相手の立場を想像するエンパシー。

これらの喜びと痛みを分かち合う「共感」は人類が協働する上で欠かせない能力とされている。だが、その行為には限界やデメリットもある。例えば介護や看護の現場には以前より「共感疲労(compassion fatigue)」に関する研究が存在する。患者の置かれている状況、痛みを理解し、良くなることを一緒に願うあまりに、高い共感性を示す人ほどバーンアウトに陥りやすいといった現象について研究している。

また従来医療従事者やカウンセラーなど、常に他者の苦痛に接する職種で顕著だった現象が、SNS時代に一般人の元でも起きていると想像できる。

さらに、ブリティッシュコロンビア大学による寄付行動に関する研究(Small, Loewenstein & Slovic, 2007)では、「被害者が増えれば増えるほど、個別の共感度合いはむしろ下がる」という「共感の減衰」を示唆している。SNSで毎日溢れる悲嘆や訴えは、熟考と統計的な対象の数が積み重なることで当初の衝撃力を希釈化し、「もうたくさん」と人々を無力感に誘う。共感は本来、人を行動に駆り立てる引き金であるはずが、過剰な刺激により防衛的な無関心や疲労を招いてしまうことがあることを示す。

(私自身も何度もクラウドファンディングの挑戦への応援の通知や連絡を受け取り似た体験をしている。)

時に冷淡であることの重要性―感情を整理し直す

ここでコンパッションに注目したい。コンパッションは、相手の苦痛を理解しながらも自分を見失わず、「相手の状態を改善したい」という前向きなケア意欲を持つ状態だ。
情緒的な巻き込まれから一歩距離を取り、冷静に問題に取り組むための心理的バッファーを提供する。まさに「自分を犠牲にせずに、人の役に立つ」ことだと考える。

あるけDAOのような仕組みは、「自分を犠牲にせずに、人の役に立つ」社会の実現を後押しする可能性がある。データに基づく徹底的な可視化は、支援者が相手の痛みを必要以上に「我が事」として抱え込むのではなく、「何がどれくらい改善可能なのか」を客観的に評価する助けとなる。こうしたアプローチは、共感疲労を軽減し、コンパッションに基づく持続的な関与を社会に提供する。

発信側への改善提案―感動物語からエビデンスへ

従来、NPOや地域活性プロジェクトは「涙を誘うストーリー」「心温まるエピソード」に頼りがちだった。だが、この「共感商法」は長期的には逆効果になりうる。一方向的で過剰な感情訴求は共感疲労を招き、支援者の信頼や参加意欲を損ねる。

そこで発信側に求められるのは、共感訴求一辺倒からの脱却だ。あるけDAOが提案するような課題データの公開や透明な進捗報告、改善効果の数値化は、コンパッションを喚起する基盤を生み出す。支援者は物語に酔うのではなく、事実を基に「ここまで改善できた」「これからさらに何が必要か」を理解する。結果、プロジェクトは「応援してよ」ではなく、「一緒に何を変えられるか」を発信し、人々の行動原理を"情緒消費"から"参加型の問題解決"へとシフトできる。

受容側への改善提案―感情的報酬から意味構築へ

一方、支援者や受容者も、単に「いい話」を消費する態度からの脱却が求められる。共感疲労を防ぐためには、感情的刺激に流されるのではなく、与えられたストーリーを「この課題は何を意味するのか?」「私たちはこの課題をどう乗り越え、どのような社会を作るべきか?」と自問するプロセスが重要だ。

共感疲労を和らげるには、支援行為を「感動したから一度きり支援する」という瞬間的行動ではなく、「どの領域で、どのような改善を継続的に支えるべきか」といった中長期的な視点で捉える必要がある。データや透明な情報開示があれば、「これは本当に改善につながっている」と確認しながら、負担を感じにくい関与へ移行できる。

まとめ

他人の「いい話」に息切れしてしまうのは、私たちがエンパシー/シンパシー過剰な刺激環境に晒され、資源化されていない「感動話」に溺れていたからだ。(ただし相手に共感する気持ちそのものは全く持って悪いものではない。)そこから抜け出す鍵は、共感をコンパッションへと成熟させる心理的転換と、それを支えるファクトベース・データドリブンな社会参加の仕組みである。
それはより成熟した社会参加を求めていることにもなりうる。

「あるけDAO」は、個々の課題をファクトベースで捉え直し、継続的な意味構築と改善策の検証を可能にする。発信側は「いい話」「切実さ」に依存せず、透明性と成果を打ち出す。受容側は安易な感動消費を超え、社会課題を自らの長期的な関与によって動かす主体となる。

こうして共感疲労を和らげれば、私たちはより確かな土台の上で行動できる。「自分を犠牲にせず、人の役に立つ」実践につなぐ新しいループが生まれれば、共感は単なる感情の起爆剤ではなく、継続的な社会改革の原動力へと進化していくだろう。

編集後記

記事の担当:なおき
運営危機への寄付のお願い、クラウドファンディングの拡散や協力のお願い、発注しすぎてしまった在庫への協力のポストが増えたのはコロナがきっかけでしょうか。
お願いごとがプラットフォームによって拡散され、取捨選択の必要性が生まれ、誰かを救うことは誰かを救わないことであると可視化されてしまいました。

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