FFから考える現代ゲームの難しさ『FF7』編
『FINAL FANTASY VII REBIRTH』はかなりメタスコアもいいので面白いのだろう。そう思ってやってみたらまあ、物量的にはものすごいことをやっているのだがなんと『FINAL FANTASY XVI』と同じ変さを猛烈に抱えていてそればっかり気になってしまいゲームを楽しむどころではなかった。
しかしハードなファンタジーを標榜したFF16とは違って、スチームパンクファンタジーを下敷きにしたFF7の世界は比較的何でもありだからその変さを説明するのもちょっと難しい。設定の整合性が取れない描写も、「まあそういうこともあるだろう……」と納得できる余白がある。しかしゲーム自体のボリュームがすごいせいで少しずつにじみ出てきた変さにいつしか溺れてしまう。
まず、このゲームはティファとエアリスのダブルヒロインですよ~と主張したいがためにすべてのことが変になっている。たとえば、画面の設計がめちゃくちゃ変である。チョコボ初登場の際に、以下のような構図が登場する。
ここ以外にも、作中には「ティファ\何か/エアリス」という構図が頻発する(何かの部分がない場合もある)。彼女達は本作を通して、生きている人間というよりは昔のプリクラのフレームみたいな扱いをされている。
もっとも大きな衝撃を与える要素の一つが、エアリスが言う「ヒリヒリでヒューヒューだね」だろう。ひゅーひゅーだね、とは1992年の牧瀬里穂主演のドラマ『二十歳の約束』で主演の牧瀬里穂が口にして流行語となった言葉であり、それより後には1998年に華原朋美が出演した「桃の天然水」という清涼飲料水のCMでも話題になった。そんな「ひゅーひゅー」を、エアリスは楽しげな煽りとして2024年に我々のもとへ届けてくる。ちなみに、FF7リバースをやったことのない30代以上の人に「ヒューヒューだね」というセリフがあることを伝えると俄然興味を持ってくれるし盛り上がるので試してみよう。それくらい「ヒューヒューだね」のインパクトはでかい。
ちなみに、セクハラもある。クラウド(21歳)は溺れて自発呼吸が止まった状態のユフィ(16歳)に心臓マッサージするのをためらう。女性の胸に触っちゃうのはちょっと……という理屈らしい。なので、胸を強調するためにそのシーンではちゃんと胸のみを映したカットになる。ここはあまりにもあまりにもあんまりすぎてさすがに声が出た。よりによってティーンエイジャーのユフィなのもきつい。
ティファが引っ込み思案な理由が、「ティファがスタイル抜群で美人だから」であると示唆されるのもすごい。ティファは美人過ぎるがゆえに彼女の周りにいる女性の嫉妬を呼び、そのせいで内向的な性格になってしまった、という理路が垣間見えるが、その「美人って女性に嫉妬されて大変だよね~、わかる~」っていう考え方がなんていうかもう……架空のステレオタイプというか……男の人が考える美人の人生っていうか……美人なせいで嫌な思いしている女性の味方をしてくれるのも多くの場合女性だと思うよ……。
チョコボみたいな鳥に遭遇した際のユフィの、この鳥はクラウドに似ているからクラピヨと呼ぼう!みたいなノリもちょっと怖い。中学生か高校生くらいまでならオッケーなノリとでも言えばいいだろうか……このノリが苦手で教室で孤立した経験を持つひとは多いんじゃないだろうか。些細なことを意識的に面白がって面白いものとして面白がれるものにするノリ。
溺れた女の子を助けたら心臓マッサージが必要だけどおっぱい触っちゃうことになる!面白い鳥を見つけたけどそれが仲間内のメンバーの一人に似ていたのでそいつにちなんだあだ名をつけよう!やっぱり中学生くらいまでの――しかも30年前くらいの中学生の感覚だ。
そう、エアリスが「ヒューヒューだね!」と発言するように、この作品はすべてのものが、FF7のオリジナルが発売された90年代のアトモスフィアなのである。ゲーム内の遊びである「南国(ワイハ)で水着の女の子と楽しくアクティビティ」「ゴールドソーサー(ディズニーランド)でいろんなアトラクションに乗ろう」など、楽しさのお手本にしているものも中流以上のちょっと昔の娯楽だ。ちょっと昔、東京ディズニーランドにまだ「ミートザワールド」があった頃のノリ。
さて、時代の流れによって古臭く感じてしまう要素がいっぱいあるFF7だけれど、その違和感は果たして時代の流れによってのみ生じているのか?というとおそらく違って、もうひとつおっきな理由がある。というかこっちの理由の方が影響がでかいかもしれない。
それはつまり、およそ25年の時を経て進化した結果ビデオゲームが手に入れた、フォトリアルなグラフィック、が生じさせる違和感なのだ。それはFF16の変さにもつながる問題で、FF7もFF16も、過去のドット絵RPG作品のテキスト、あるいはシナリオの作りかたがそのまま現代のゲームに持ち込まれているように見える。
それは『FINAL FANTASY VII Remake』の頃から予感があった。クラウドはティファとエアリスに加えてジェシーというテロリストからも好意を向けられる。そしてジェシーはクラウドのほっぺにキスをする。挨拶的なチークキスではなく、本当に「ほっぺにキス」である。私はこのシーン、マジでクラウドの白昼夢かと思った(クラウドはよく白昼夢を見るため)。「ほっぺにキス」はここ最近の実写の映像作品では『パーフェクトデイズ』でもあったが、あれも広義の白昼夢映画と言えよう。
実際のところ、これがドット絵のRPGだったらあんまり変じゃない。というか、限られた表現形式で愛情表現を見せるなら、ほっぺにキスはものすごく適切だ。余談だがこの時代(SFC~初代PS)のゲームではほっぺにキスばっか見てたので『アークザラッド』ではじめて私はアークとククルのキスを見てめっちゃびっくりした。
上記の、「ドット絵からそのままフォトリアルは違和感理論」を適用するといろんな変さはかなりの部分説明できる。FF16のお花畑のキスも、裸で焚火のシーンも、たぶんドット絵だったら「なるほどいいシーンだ」となっていたはずだ。でも、グラフィックの限界を乗り越えるために採用された演出を、生身に近い大人の男女のグラフィックでそのままやったら変に決まってる。ドット絵やローポリの二頭身キャラとセックス含めたフォトリアルな人間に伴うもろもろに距離があるからこその演出だったのだから。
ただ、フォトリアルなグラフィックになったことで付与されたリアリティが、オリジナル版発売当時には伝わりづらかったディテールを拾いやすくしたり、あるいは存在しなかったディテールによってキャラクターに深みが出た部分もあって、その変化についてはどれもすごく興味深かった。
ひとつは、クラウドとエアリスの関係について。クラウドにとってのエアリスというのは「都会に出てきて最初に出会った年上の女性」というわりと古風な教養小説的類型のキャラクターだということが判明した。結局その恋には破れて、地元の幼馴染と所帯を持つ……というのはよくあるパターンだろう。今作ではエアリスに専用のテーマソングが用意されていたりとかなりエアリスに寄った演出がなされているけど、それはつまりエアリスのお話しは今回で終わりで、次の「リユニオン(仮)」ではティファとクラウドの関係をしっかりやっていくんだろうなあ、と予測できる。
また、いちばん大きい変化を感じた(当時にもあったかもしれないけど私が今回気づけた)のはバレットについてだ。バレットは地球環境を破壊する神羅を憎むテロリストだが、神羅のしていることが悪い事である根拠として「星命学」という学問に傾倒していることが描写の端々からうかがえる。星命学がもっとも盛んな場所として「コスモキャニオン」という場所が今回の作品では登場する。コスモキャニオンはパーティメンバーのレッド13の故郷でもある。そして私は今回の作品を遊んで初めて気づいた。ここ、セドナじゃねーか。セドナというのはネイティブアメリカンの聖地で、日本語公式サイトの「スピリチャル」という文言が示す通り、世界有数のパワースポットとしても一大観光地になっている土地だ。レッド13のデザインがネイティブアメリカンからきているというのもこの年になってやっとわかった。コスモキャニオンの住人以外のNPCは現代のファストファッション系カジュアル服を着ていることが多い上に、スーツケースを引いているため、ここがある種の観光地として開かれていることが一見して理解できる。コスモキャニオンはバレットにとっても憧れの土地だったようで、ここに着いてから彼はずっとはしゃいでいる。
星命学の教えが彼の思想と一致したり彼の思想を補強したりすると、「ほれ見たことかやっぱり俺は正しいんだ」と胸を張る。しかし一方で、星命学の大家であるブーゲンハーゲンに別の視点を示されたり、勉強するといいよと言われると、「勉強はしたくない」という雰囲気を出しまくる。彼が欲しいのは、自らの故郷をずたずたにした神羅を否定する理屈であり、系統化された知識や論理が彼の信念(神羅はとにかく悪い)を否定する可能性があるなら、そんなことはむしろ知りたくもないのである。その気持ちの動きはめちゃくちゃわかる。誰だって自分の考えを否定しそうな理屈には耳をふさぎたいものだ。わかる。わかるけど。
そしてコスモキャニオンのモチーフとバレットの性格を組み合わせると、「人の話を聞かないタイプのスピリチュアルな考えを持つ環境テロリスト」となって、なんかすごく嫌な感じになる。現実の有名な環境活動家はちゃんと勉強している人もたくさんいるので……。しかし、ブーゲンハーゲンが「ここに来る人はちゃんと星命学を知ろうとしない」と言うのもなんか妙にリアルで、こんなにすごいぞネイティブアメリカンの教え、みたいな話はみんな大好きだけど現実のネイティブアメリカンの生活には興味ない『フローズン・リバー』的状況はいくらでもある。コスモキャニオンのチャプターの批評性に私はかなりびっくりした。
バレットはエンディングでどう考えても様子のおかしいクラウドにまったく気づいていない感じもすごく怖く、ティファに注意されるまでは親友の娘のマリン(未就学年齢)がいてもちゃんとした家に住まない生活を貫いていたという情報から考えても、とにかく「ケア」の概念が欠落している男性として描かれている。そんなひとは現実にありふれているかもしれないが、パーティの仲間として一緒に行動しなければいけないのはやはりすごく「現実」という感じがする。キャラクターとして深みが増してるからと言ってそんな現実は現実だけで十分なので、このゲーム、ますます友達に勧めにくい。
なんか結局バレットの話になってしまったが、FF16もFF7もいずれも、90年代のキャラクターや物語づくりの名残りが2020年代の技術やストーリーテリング、あるいは倫理観やジェンダー観とハレーションを起こしてそこから「変」が零れ落ちてしまっているのだと思う。90年代は許されていたことが許されなくなった、という社会的な認識の変化はけっこう簡単にわかるけど、「90年代と同じ内容を今の技術でやるとその時点で変になる」という現象はなかなか認識しづらい。リメイクプロジェクトだとどうしても変えられない部分もいっぱい出てくるだろうから、余計に難しいだろうし。とはいえ、このままの価値観や演出が続くようなら広くいろんな人に遊んでもらうのは無理だとも思う。というか私がきついぞ。