【新宿区】玉川上水番所跡と四谷大木戸跡
こちらは新宿区四谷四丁目の交差点付近にあります。
四谷四丁目の交差点といえば、有名なところでは1980年代に人気アイドルがビルから飛び降りたというショッキングな事件がありました。
私は当時は小学校4,5年だったと思ったのですが、時系列で追っていくと小学校6年でした。テレビを見てなかったのでクラスの会話についていけなかったです。テレビに幽霊が映っているとかの話になっていたなぁ
このころって一つの事件事故に対する注目度が高かった時代ですね。
今は情報源が様々あるから昔ほどは注目されないような。
YouTube見るといっても登録者で見てるんじゃなくて自分の趣味趣向で見てるから、みんなが見ているっていうのは逆にない時代。昔は山は一つだけだったけれど、今はたくさん山があるという感じで。
交差点のその他の思い出としてはここで安達祐実さんと黒田アーサーさんを見たことがあるんですよね。
彼らは2002年に熱愛発覚。2002年なんて最近じゃないかとおもっちゃうけどもう20年前なんですよね。なんか時間の感覚がおかしくなるなぁ。年を取ったっていう事なんでしょう。
そして安達祐実さんはサンミュージック所属だったんですね。
現在の地図
青印が写真を撮った場所。四谷交差点はけっこう大きな交差点です。四谷交差点を北上すると富久町西の交差点にあたります。
地図外なので余談ですがさらに北上する幹線道路を作りたいという計画があってそれが
「環状4号線計画」
環状1号線は皇居周りをぐるりと。2,3号線となるにつれて年輪のように膨れ上がっていく感じになっています。
環状4号線計画は100年前の大正時代の関東大震災後からありました。
その一つとして旧市ヶ谷刑務所跡あたりを分断するように道路を通す計画があります。開発が進まなかったのですが、令和4年5月26日に一部が交通開放するというニュースがありました。道路計画は一歩進んだことになるようです。
都としては刑務所慰霊碑がある場所は道路として消し去りたいところとおもいますが今後どうなりますか。
https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2022/05/12/05.html
江戸時代の地図を見てみましょう。
理性寺、田安徳川家、四谷大木戸、水番所。
という周辺地域。
理性寺は大正時代に杉並区に移転。
田安徳川家はこのあたりの田安通りっていうのは田安徳川家があったからなんですね。
大木戸跡のあったとおもしき場所には石碑のようなものがあります。
左下諏訪宿というのは左に行くと下諏訪宿(長野県の甲州街道の終点)に至るという碑。
甲州街道の起点、四谷大木戸がこういった状況でしか残っていないのは寂しいですね。
寛政4年には木戸は廃されたとのこと。寛政4年は1792年ですから明治維新の100年前の話。
絵でみると結構大きな石垣です。江戸時代の地図と照らし合わせてみると奥が水番屋かもしれません。もしくは田安徳川の敷地。
水番所跡には新宿区教育委員会の案内板が建っています。
玉川上水水番所跡
この地には玉川上水の水番所がありました。
江戸時代の1653年に掘削工事が始まり、同年に羽村~四谷大木戸間が開通。翌年にはここを通って江戸市中に水がとどけられていました。
明治に入って淀橋浄水場の開設によりその役割を終えました。
水道碑記
額は徳川家達(第16代徳川宗家)
選は薩摩の肝付兼武(子供の肝付兼行は海軍の水路部を務める。海軍中将、貴族院議員、大阪市長)
書は書記官 金井之恭
刻字は井亀泉(江戸三大石匠)
明治期の石板によくある大きなスレートに文字を刻むスタイル。
明治十八年四月という文字が見えます。実際に明治十八年に建てる予定でしたが発起人が亡くなったことによって中断して明治二十八年に建立。
色々な人が苦労して玉川上水をつくって江戸に水と届けたということが書かれています(推測)当時の人は石碑は漢文なんですね。しかも文字も機械で刻んだような精緻さ。
四谷大木戸跡碑は写真撮り忘れました。(気が付かなかった・・・まあ石垣が残っているわけじゃないので)
明治文明開化時
地図の境目でした。田安徳川家は屋敷というより敷地のようで茶畑が広がっていますね。四谷交差点はありません。
明治時代後期に飛びましょう。
まだ四谷交差点のような大きな道路はできていません。
北側が理性寺 旗本の大久保兄弟が1654年両親を弔うために作ったお寺だそうです。大正3年に杉並区永福町へ移転。
すでに水道の碑があることは確認できます。理性寺の西には麹屋横丁。
当時はこの麴屋横丁がメインストリートだったようですね。
大正時代
大國座というのがあります。大正6年にできた芝居小屋で大正14年の演目では心中天網島、女殺油地獄、 山本有三氏作 嬰児殺し 、清水次郎長 など。歌舞伎役者が舞台に立っていたようです。
大國座は理性寺跡に建てられたようですが、火事で焼けたり、演者が亡くなったりして規模が縮小。経営者が変わったりしながら戦争で終焉を迎えるようです。
昭和戦前期
大國座の表記も無くなってしまいました。この時期に北にある靖国通りとつながる道路ができて四谷の十字路ができたようです。
四谷区役所はここにあったのですね。
ちょうどこの時期の東京市職員写真名鑑ですが、顔写真と住所もガッツリ載っています。時代ですね。そういえば昔は小説とかでも作者近影と住所がのっていたりしました。名前を世間に知らしめることが誇りだった時代なんだと思います。
地図でも〇〇邸って書いてありますね。今はそういうことは書いてありません。ユニクロ邸なんて地図には書いてないですから。
高度経済成長期前夜 1955年頃
空襲で広範囲が焼けてしまったようで、戦後しばらくたっても宅地のまばらな様子がみてとれます。
まとめ
今回は素通りしてしまいがちな四谷交差点にしばし立ちどまって東京時層地図をみてみました。
現在は車が忙しく通り過ぎるだけのようにみえるこの交差点も、かつては玉川上水の重要地点、そして甲州街道からの江戸への入口である四谷大木戸、さらには芝居小屋もあり、麹屋横丁なるものがあり、にぎわっていた様子が想像できました。