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【千代田区】皇居乾通り一般公開

令和5年3月25日(土)から4月2日(日)までの9日間、春季皇居乾通り一般公開。ということで行ってまいりました。

子供の頃は城好きでしたが、その後は縁遠くなり、中年になって皇居東御苑を訪れて城好きが再燃し、普段入れない内部を見れるとあって気持ちは昂っていました。

しかし娘はテンション下がり。まあそりゃそうですよね。石が積みあがってるだけですから。「石しかないよ」ってボソッとつぶやかれてもそりゃそうだよなと。

毎回衝突が起こるようになってきましたので、僕の行きたいところに行くたびにおこずかいをあげ、そしておこづかいの1割は運用にまわしお金が増えるというシステムにしようかな・・・まあ伝わらないと思いますが・・・

僕の行きたいところに行くのもなかなか難しい事になってきました。

小さいときはずっと抱っこで移動したりおむつ替えしたりベビーカーでの移動が面倒だったけど、大きくなってからは折り合いつけるのが本当に骨で、こちらの方が血圧が上がる。

そんなこんなで現地をめざして駅から最短距離で二重橋前駅で降りたのですが、道のりの長いこと長いこと。

坂下門を目指す。

ぐるっと回って日比谷駅から歩いているのと変わらないくらいの距離感でした。しかも妙に暑かったですね。

そして発熱検査、持ち物検査を通ってあるいていくと坂下門

坂下門

1862年2月13日、坂下門外にて老中安藤正信が水戸浪士に襲撃を受けるという坂下門外の変がおこる。水戸浪士は全員討ち死にするものの、幕府の権威は失墜。明治維新が1868ですからまさに激動の時代。

坂下門 通常は一般人立ち入り禁止です。ちなみにこの大きな渡櫓は明治になってから移築されて現在の位置になりました。
江戸時代は今と渡櫓の角度が90度違います。角度をつけて回りを覆えば、敵の直進的な侵入を妨げるわけです。築城時にいろいろと考えられているんですね。現在の建築でもスロープのある建物とかみると、たいてい入口に向かって横に横にいく事になるので、おー・・・これは攻めづらい形状だと考えてしまいます。

しばらく進むと緑色の屋根の古めかしい建物が。これが宮内庁庁舎。

昭和10年 1935年建築 東京都千代田区千代田1丁目1番地 昭和10年ってことは国会議事堂とあまり変わらないですね。

今回はここから東京時層地図をみていきます。

宮内庁庁舎 この風景は昭和10年から変わらないというのがすごい。

現在の地図

うーん ここだけでも十分スゴイ。普段は入れないですからね。
この坂をあがっていくと宮殿です。江戸時代には前将軍が住んでいた西御丸、将軍は本丸。

明治9~19年の地図

西の高台にある西御丸、西御丸大奥等もすっかり更地

「江戸城火災と幕府の防災施策との関連性についての考察」によると http://tsujimoto.sub.jp/TUS-SOTSU/ITOU2006.pdf

1863年 7月18日 西の丸焼失

とありますので、老中が襲撃されたり、西の丸や本丸、二の丸が焼失したり、幕府はメタメタ。1863年は幕府滅亡のカウントダウンですね。

徳川幕府江戸城攻略についていろいろと考えていましたが、どうにも穴がない。

堀につぐ堀、門に次ぐ門で難攻不落だなと思っていたところ、流行りのchatGPTに質問してみたら、大砲を打ったり特殊部隊を忍び込ませたりするのはだめで、内側からの火災が効果的だとでていて、なるほどなと思いました。そういえば大阪城も台所火災や外堀埋め立てなどで攻略されていますね。

この時期の本丸、二の丸、西の丸焼失はそういう討幕勢力の働きの一つだとと妄想してみたり。

道路にそって進んでいくと右手に富士見多聞(江戸時代の地図には休憩所前多聞)があります。まさかここから眺めることになるとは。はぁ~と感服。目の前は蓮池濠です。濠があってこの高石垣すばらしい。

富士見多聞

富士見多聞の向かいには門長屋と称される建物がありました。

門長屋 謎な建物です。明治期の地図を見てもこの場にこの建物は無い。どこかからの移築なのでしょう。
どのくらいの時期の建築物なのでしょうか。

さらに進んで左手には道灌濠。往時の道灌濠は今よりさらに大きかったことが明治時代の地図でわかります。

ブルーシートにくるまれた謎の物体がありますが、手前が道灌濠 奥が紅葉山

明治時代の地図には紅葉山 そして紅葉山文庫の表記があります。

この紅葉山には江戸幕府初代将軍の徳川家康の霊廟があり、明治初年に取り壊し。

ご神体は上野寛永寺に移り、その後は上野戦争でまた点々とし、千駄ケ谷の徳川邸の千駄ケ谷東照宮に移りますが、その後はどうなっているかは不明でした。
紅葉山の石鳥居は上野東照宮に移築。

2023年NHK大河ドラマは徳川家康が主人公
ドラマのナレーションで家康は
「神の君」と呼ばれています。
その神の君の霊廟は取り壊されて、御神体はいまはわからないなんてミステリーな話。
おそらく代々木上原の徳川宗家にあるのではと考えています。(通説では久能山から日光東照宮)

続いて右手に目を転じますと、これまたテンションがグッと上がる構造物がありました。

おー!!これは西桔橋(にしはねばしもん)じゃないか!!こうなっているのね。地図だとなかなか高低差まで想像しにくかったけれどこういうことか!

奥にあるのが西桔橋(にしはねばしもん)江戸時代の地図をみると本丸大奥と西御丸をつないでいます。右側が本丸方面で左側が西の丸方面です。高低差がありますね。

門扉があります。これを開けると西桔橋(にしはねばし)につながります。
西はね橋門をすぎると大きな堀があらわれます。実に荘厳です。素晴らしい。
この石垣の奥には天守台があります。真ん中石垣の左端には明治までは乾櫓がありました。
さらに左に進み、乾櫓をみたところの写真 (指定名称)旧江戸城写真帖(六十四枚) (旧江戸城写真帖 のうち) 蜷川式胤編 (にながわのりたね) 1枚 鶏卵紙 明治4年(1871) 東京国立博物館
ちょっと角度が違いますが、撮った写真に明治初期の写真と近い角度の写真がありました。北はね橋がみえます。


沢山の人が参観していました。皆様は咲いている花に夢中、私はお堀と石垣に夢中。
お花も散り際です。

乾通一般公開、素晴らしかったです。ありがとうございました。

では残りの東京時層地図をみてみましょう。

明治後期

宮内省ができています。池ができてる。建物の正面に池をつくるのはこの時代の流行りなのでしょうか。すでに白抜きです。
局門 明治初期にはみられませんでしたが明治後期の地図には表記があります。新築か、どこからかの移築か、もしくは江戸時代の地図にある紅葉山御門か、明治初期の中里門かいやそれにしては小さいかな。

大正時代関東大震災前

この時代は白抜きですね。大正時代で白抜きはここだけだと思います。

昭和初期戦前

戦前の昭和10年頃、白抜き改描がよく見られる地図です。

高度経済成長期前夜

宮内庁は戦火を免れています

バブル期 1990年頃

新宮殿は昭和43年に落成。

コチラは皇居内のマンホール。電なので電気でしょうか。珍しいかもしれませんし珍しくないかもしれません。みたところ普通のマンホールでした。

今回は貴重な体験をさせていただきました。
何時の日か新宮殿前にも行ってみたいと思います。

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