【北区】飛鳥山公園と渋沢栄一
7月のある日。日差しが熱いです。痛い。
最高気温34度となった7月のある日、北区飛鳥山公園に行ってきました。
電車からのアクセスもよく、公園内はたくさんの遊具があり、ファミリー層の方が多いです。
自走式モノレールがあるんですよね。これには驚きました。エレベーター感覚で乗れます。
江戸時代の地図をみると「此の辺り茶屋多し」となっていて古くから愛された観光スポットだったことが分かります。
嘉永6年(1853年) 江戸名所 飛鳥山花見乃図 広重
女性がたくさんの子供たちを引率して飛鳥山に花見に来た様子にもみえて、奥のほうではゴザを敷いてお花見。奥には富士山。
「せんせー、あの石なんなの?」
と聞いているようにも見えて、ほほえましい絵ですね。
そして「あの石」は今も飛鳥山碑として存在します。
1720年(享保5年)に徳川吉宗が飛鳥山に桜を1270本植樹し、1737年(元文2年)に徳川吉宗をたたえて飛鳥山碑を建立とのこと。(写真は撮ったつもりで撮っていなかったのでまた次にいったときにでも。)
明治初期の飛鳥山公園(明治9~19年)(1876~1886年)
まだ公園とはなっていないように見えますね。飛鳥山の北に抄紙部があります。
明治後期(明治39年~42年)(1906年~1909年)
飛鳥山に渋沢栄一邸が建てられます。
明治12年(1879年)から別荘、明治34年(1901年)からは本宅として飛鳥山で生活していたようです。この時期は本宅として生活していました。
おいおい、明治政府の有力者だったら、どこでも好きなところに住めるのかよ、やりたい放題だな。と思っていました。それは思い違いでした。
まずは地図を見ていきます。
飛鳥山の北に印刷局抄紙部(しょうしぶ)と製紙会社があります。
現在の王子製紙の前身です。印刷局の初代理事長は渋沢栄一。
渋沢栄一は埼玉の農村出身、半商半農の富裕農家(えっ!!この時代はばをきかせてた薩長土肥の武士じゃないの??)
能力が認められて武士へ取り立てられ(え??そんなことあるの??農民から武士ってどういうこと??)
幕府士官として一橋慶喜の元で働く(えっ!!将軍家で働くの?そんな話あります?この時代は身分制度がはっきりしていたんじゃなかった?)
明治維新後は一年ほど静岡藩で働くが、大隈重信の説得で民部大蔵両省へ入り官僚になる(はぁ??大隈重信が説得して官僚??)
政治的に対立して官僚をやめる。(えーもったいない。今の時代の奥さんだったら離婚騒ぎの大激怒でTwitterでグチグチ言いまくるんじゃないですか?)
その後は井上馨らのバックアップにより実業家に。企業した会社は銀行など500社以上(500社以上ねぇ…ああ、なんだ、異世界チートもののマンガの話だったんだ。恍惚。)
飛びぬけて優秀な人間には仕事は勝手にやってくるという結論に至りました。
一般的であることを自負する方は渋沢栄一を目指すのはやめましょう。彼は時流に乗ったスーパーマンでした。(今季の大河ドラマは見ていないので詳しくはわからないですが)
1872年(明治5年)に製紙会社が興され、印刷局と製紙会社のほどちかくに理事長である渋沢の家があるということは、渋沢のこの事業に対する意気込みを感じますね。
渋沢栄一の凄いところは、その気になれば財閥を作って自分とその周りの人だけの富を築くこともできたのに、それをしなかったということではないでしょうか。
富を独占することではなく富を共有し、社会に還元するということを考えていた。これは常人では到底できないことですね。
どんな人でも家族の為とか周りの人の為とか言いながら、やっぱりスケベ根性は出ちゃうとおもう。社会に還元するということを考えていたからこそ500社以上の起業の話がきたのかもしれないし。
飛鳥山が本宅になる前に住んでいたのは港区の日向坂。オーストラリア大使館の西。1860年江戸末期に住んでいたのは織田出雲守信民でした。
大正時代の地図、渋沢栄一宅のあった場所から撮影。
庭と思われる場所は盛り土があり小山になっていました。
飛鳥山の自宅は外国の要人を招いていた場所と伝えられていますので、この辺りを散策したのかなと想像。
この写真なんてまさにこの場所なんじゃないですか? (飛鳥山博物館より)