【港区】芝公園六角堂跡
運動することは好きなのだが風邪をひきやすく、かといって寝てるわけにもいかないので、薬を飲みながらやりすごすのだが、そうなると運動のほうからは遠のいてしまう
じゃあ、どうするかというと、ネットサーフィンということになるのだが、それもじきに飽きてしまう
そして残されたのはこのように文章を羅列していくことが、羽毛布団に包まるようなぬくぬくとした楽しみとなる。
なにも文章が思い浮かんでこないと小説を読む。単純な僕の事、すぐに影響を受けて小説家が劣化コピーされて乗り移ってくる
「苦役列車」という小説は気に入って手元に置いておいた。
作者の西村賢太さんは私小説家のアウトサイダーでなんとなく親近感が持てる。(僕的にアウトサイダーというのは、社会の枠からは外れてかつ仲間の少ない人。枠から外れても仲間が多い人はそれらに当たらない。要するにボッチ傾向の強い人の事をいう。)僕の少ない読書量の中でいうと、チャールズブコウスキーや色川武大さんなんかがそれにあたる。
で、西村さんは昨年2月に突然亡くなった。
タクシー乗っているときになんらかの変調をきたし病院で亡くなった。以前からビートたけしさんとお酒を飲んでいるときに寝てしまうエピソードもあったから体調も悪かったようだ。
ああ亡くなったんだな 残念だなとそれっきりだったが、またふと思い出して苦役列車を読み返し、もうちょっと著書を読んでみようかと思って検索したところ、気になる本があった。
芝公園 六角堂跡
これはスルーできない。
芝公園といったら東京時層地図にみられる激変の地で、かなり楽しめる場所だ。
東京タワーはかつて尾崎紅葉が、彼の友達が芸者にこっぴどくふられたとかで、芸者をなぐり倒しに行っている紅葉館があった場所に建っている。
戦前は徳川家霊廟がずらーっとならび、戦災の瓦礫となったその上に昭和の黒幕ともいえる西武の堤康次郎がプリンスホテルをたて、またプリンス系でも新しいザ・プリンスパークタワーは台徳院殿宝塔跡(徳川秀忠霊廟)だ。
戦前、丸山古墳にはいまとは違うオベリスク型の伊能忠敬記念碑があり、古墳の南の運動場には大隈重信銅像、増上寺前には後藤伯(後藤象二郎)銅像、芝東照宮には軍人の小菅智淵銅像がたっていた。
芝公園は江戸明治戦後と大転換する場所なのだ。
芝公園 六角堂跡
を早速取り寄せて読んでみるた。内容はこうだ。
作家の西村さんは芝公園のプリンスパークタワーで行われていた大ファンの稲垣潤一さんのライブに招かれおおいに楽しみ、帰りがけに没後弟子として師事していた作家の藤澤清造が亡くなった場所が近くだったことを思い出さないようにしていたが、やっぱり思い出してしまった。
というもの。
この芝公園六角堂というのが場所不明らしい。
西村さんもいろいろとあたりをつけているが正確な場所はわからないままだった。
僭越ながら一読者の僕が東京時層地図を使って調べようとおもった次第。
地図は藤澤が没した年と近い昭和10年頃の東京時層地図を見る。
西村さんの本によると藤澤清造は昭和7年1月末に芝公園の17号地の六角堂内のベンチで凍死。西村さんも2月の寒い時期に亡くなっているから呼ばれたのかもしれない。
当時の住所だと芝公園17号地はお寺の妙定院となる。
妙定院
しかし、なぜか西村さんはハナから妙定院は候補地として除いているようだった。
でも、明治後期から戦前にかけて芝公園17号地には妙定院をのぞいて建物が残っている様子が地図からはみられない。
17号地の建築物はここしかない。
もう一つの候補地としては六角堂は芝園橋に面していたトラックを前に立っていたという記述があった。
昭和初期戦前の地図をみるとたしかにたてもののようなものがある。となると住所は16号地となる。除籍謄本とは違う。
トラック北
トラックの東側にも東屋のようなものがある。それっぽいが住所が16号地になってしまう。
そもそも六角堂というのは六角形の屋根を持ったお堂の事だろう。仏教施設みたいな響きがある。明治を過ぎてからわざわざ公園に作ったりするのかなという疑問も残るが考えすぎか。
さらに西村さんがいうには1897年の芝公園版画に六角堂というのが確かにあり、それは伊能碑と五重塔の中間にあったらしい。
明治9~19年の地図までさかのぼっていけば丸山の中腹に四角形の構造物はあるが明治後期になるとよくわからなくなっている。
1897年だと明治30年。藤澤清造がなくなったのは1932年昭和7年だから35年の開きがある。
その間の大正時代からは伊能碑と五重塔の間には建築物はない。そして1号地だ。仮に六角堂だったとしても除籍謄本からは離れてしまう。
ちなみに五重塔があった場所近辺には現在 トラの石像がある。
写真は下の錦絵と方角的には一致しているはず。
そして僕の蛇足になるが、除籍謄本の書き間違いだとすると17と似ているとしたら11だ。
11号地は増上寺大門の南側の一角となる。やはり増上寺関連のお寺で安養院、浄運院という名称。寺院なら六角堂があっても不思議はない。
安養院
いやまてよ・・・大きな勘違いをしている。地図ではアラビア文字で数字が書かれているが除籍謄本なら旧漢字でそりゃないな。
それに寺院内で凍死していたらそれなりの記述があるはず・・・だから西村さんは17号の妙定院をはなからのぞいていたんだ。
国会図書館デジタルでしらべると、同時期の作家の証言がでてくる。
女ノ図 室生犀星 昭和10
によると、室生が藤澤との思い出を語り、芝公園の何号地かも、どこのだれかもわからずに凍死して、どこのだれかもわからずに火葬されたとのべている。
人生読本 尾崎士郎 昭12
によると、兒玉花外が養老院にいくとなったことを述べていると同時に、藤澤清造が芝山内で凍死したとある。芝山内とは増上寺境内ということになるので範囲が広くなる。
結局はわからないのである。
ここでふと気が付いた。
なんで藤澤清造が六角堂で亡くなったことになっているのだろう。
当時の小説家はそんなこと言っていない。
それは藤澤清造貧困小説集に芝公園内の六角堂で亡くなっていることが示されているからだという。
この藤澤清造貧困小説集というのは2001年の自費出版で扉絵がつげ義春
なんと、ごく最近のものなのだ。
うーん、六角堂でなくなったというのは自費出版された方の味付けなのではないだろうか。
昭和8年に芝公園内にて藤澤清造が亡くなったことははっきりしている。
明治期には六角堂とおもしき休憩所も芝公園内にあったかもしれないが、藤澤清造死亡時には無かった(それでも地図には明治末から昭和にかけてはそれらしい場所は発見できない。)
芝公園の六角堂で藤澤清造が亡くなったというのはフィクションなのだ。
だから没後弟子の西村さんも、西村さんの小説を買ったの一見客の僕も振り回された。
除籍謄本通りとなると17号地の木々が生えていたあたり一帯となる。現在のテニスコートだ。
藤澤は雑木林の小径の一角で亡くなったのだ。
(※個人的な見解です ちなみにTOPの写真は東京タワー付近の観音堂で六角堂でありません。)
あとがき
結局は西村さんと同じような結論になってしまったが、丸山古墳を探索後、東京タワーへ向かう途中に気になっていたお寺にいってみた。
お寺の名前は宝珠院という。
現在でも池はあるが、明治期にはこのお寺の周りはぐるりと池が取り囲む形だったようである。御朱印帳とお守りを購入ついでに東京時層地図を見せながら池の事を質問してみたところ、そうなんですよとの事だった。
芝東照宮では宮司さんとおもしき方に、家康の東照大権現という名称について天海と金地院でもめ事があったというお話を聞いたりして、今回は満足度の高い芝公園訪問だった。