【台東区】上野弁天池と博覧会と徳川の遺構
上野の弁天池は周りが競馬場だったことは以前にとりあげました。
今回は弁天池内からでの東京時層地図。
上野不忍池競馬は1884年(明治17年)から1892年(明治25年)の間に開催され、天覧競馬がありアメリカの元大統領のグラント将軍が訪問しています。その後は資金難のために閉鎖。
不忍馬見場。池の北側にありました。中国建築のような屋根がそりあがった立派な建物です。
今回は弁天池と弁天様に訪問。
ボートの中から東京時層地図
明治後期の地図
不忍池競馬はわずか8年だったので東京時層地図には痕跡が残るだけです。馬見場だったところが商品陳列所となっています。
商品陳列所は商工業の博物館として明治期には全国にあったようです。
明35.9 東京名所写真帖
明42.3 最新東京名所写真帖
不忍池東側から写真をとっていますね。
明治期の地図で不忍池で今と違うのは観月橋という橋があります。
明治42年の 「暑中休暇日記の栞 : 男女共用」安田香雨 著
という本に
ある夏に夕食後友人や弟とともに散歩をしていたら、いつのまにか不忍池湖畔にでてしまって、観月橋にたったとき、待合や料亭のあかりが星のごとく煌めき、湖面には月が反射してたとえるものもないくらいに、とてもきれいだった。夜の公園は実に静かでよい。この公園は東京市民のパラダイスだ。
という記述がありました。
明治後期のこの辺りはなかなか良かった様子が見てとれます。
大正時代関東大震災直前。(1916-19年 大正5ー10年)関東大震災は大正12年
大正3年に東京大正博覧会が開催され、不忍池にはロープウェイが作られました。そのときの東京大正博覧会遊覧案内の地図です。
弁天堂からみた第二会場 スゴイですね。一大イベントだったことがわかります。
大正11年 平和紀念東京博覧会写真帖
東京時層地図の大正時代の地図には、この写真の対岸にある建物は見当たらないのですが、東京大正博覧会の案内の地図には建物があります。
時代的には東京大正博覧会→東京時層地図の地図なので、建物は博覧会限定だったのでしょう。
東京大正博覧会の案内が秀逸で
【第二項】手荷物の多いときはドーするか
【第三項】東京に着いたら第一にドーするか
【第四項】電車にはドーのってドー降りるか
など「ドー」という言葉が連呼されていました。
言葉の乱れが指摘される昨今ではありますが、100年前は「ドー」が日常的に使われていたんですね。
ちなみに不忍池付近は博覧会の第二会場で、東洋趣味をくわえたサラセニツクというスタイル。(第一会場はルネッサンス、セセッション)
第二会場には農業館、運輸館、染色館、外国館、奏楽館、動力館、機械館がありました。
昭和10年頃の戦時中
戦時中の常套手段である白抜き改描はあまりみあたりません。観月橋はなくなりました。
1955~60年頃の地図
不忍池をなぞるように走る都電20系統は昭和42年まで存在していたようです。
都電20系統の歴史は古くて明治40年からで当時は上野~須田町。最終的には江戸川橋~須田町と延長したようです。
バブル期の地図
上野動物園の東と西を結ぶモノレールが見えます。
動物園内のモノレールは1957年に開通したとのことなので、地図の記載には間に合わなかったのかもしれません。
今回は弁天様にも訪問しました。
弁天堂は寛永寺と同時代にできたようです。
江戸幕府初期の重鎮、天海によって、上野の山を比叡山にみたて、寛永寺を延暦寺に見立て、不忍池を琵琶湖に見立て、浮島を竹生島に見立て、この弁天堂を作ったということでした。
この弁天堂は寛永寺の一部だったんですね。
なるほど東叡寛永寺の一覧図の看板もありました(写真は撮り忘れ)肝心の寛永寺が現在寂しい佇まいなので一体化しているというイメージが湧きませんでした(動物園で立ち入っていいところが分断されているのでなおさら)が、江戸時代はこの不忍池から鶯谷駅にかけて東叡寛永寺は徳川菩提寺として繁栄していたということですね。
そして弁天堂は塚が多いです。鳥、魚、めがね、ふぐ、糸、包丁、扇、暦、という塚があります。
鳥塚
幕末の剣豪、櫛渕虚冲軒の碑(櫛淵宣根1748~1819年の碑)群馬県出身で御徒町に道場があったようです。
包丁塚と上豊調理師会の碑
いと塚
まだまだ見るところはたくさんありました。上野は奥深いですね。
今度は上野の東照宮、精養軒あたりからいこうかと思います。
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