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【千代田区】日比谷交差点

通りすがりですが日比谷交差点で東京時層地図を開いてみました。

一見すると、都内によくある大きな交差点という感じです。

道幅広いな横断歩道の信号を早く渡らないと赤になっちゃうよ みたいな。

日比谷交差点
奥が日比谷サンケイビル 2000年に経営破綻した大正生命保険の本社だったそうです。大正生命保険は大正2年に大正天皇の従兄の柳原義光が据えられましたが金策の為に利用されてしまっていたので、資金繰りが厳しくなり家を売却したりと大変だったそう。異母妹の柳原白蓮は炭鉱王に嫁ぐも学生と出奔する白蓮事件、次女は不良華族事件、自身は男色相手に手切れ金を脅し取られるなど、柳原家は当時のマスコミの格好のネタになってしまっていたようです。
南にあるのがペニンシュラホテル 香港系のホテルです。ペニンシュラは対面キッチンの意味。ホテルについては詳しくありませんが、大人一人一泊10万円からという高級ホテルです。縁はないですね。

それではここから始めてみましょう。




現代の地図

鹿鳴館跡、帝国ホテル、日比谷ミッドタウン、帝劇、皇居、日比谷公園 もうめちゃくちゃ凝縮している場所。伊達政宗終焉の地ということは江戸初期には伊達屋敷があったのでしょう。

江戸末期 1860年頃

江戸時代末期の日比谷交差点は大名屋敷が点在。

現在地は

寺社奉行 三河岡崎藩 本多中務大輔忠民 
高松松平家から養子に入り、老中。

親藩で固めているようです。

ちなみに西側が日比谷公園ですがここに毛利と鍋島の屋敷があります。

日比谷御門の表記があります。

日比谷門 江戸時代の地図と合わせると西側からみた図ですね。日比谷門は橋がないタイプの門。

内には親藩、外には外様の毛利、鍋島ということをかんがえれば。日比谷門の外と内って東側が内で西側が外なんでしょうね。



明治9~19年 1876~1886年

明治初期 情報量が超多いです。

地図をみると、なぜ日比谷が一般人が住んでいない場所なのかわかります。いまは地続きになっているから境界線はわかりませんが、当時は堀があってくっきりとすみわけられています。
江戸時代から一般人が住む場所ではなかったみたいですね。

○ 南の大神宮は後に移転して、現在の東京大神宮になります。
○ 西は陸軍の練兵場
○ 北は東京鎮台、監軍本部、陸軍教導団

○ 現在地は中山邸 権大納言 中山忠能 明治天皇の外祖父です。

政権交代とともに幕府方は追いやられてかわいそうとはおもっていました。
判官びいきっていうか、負けているほうに肩入れしたくなるというのはありますよね。

しかし、

先日、実家の仏壇の横っちょに入っていた古い遺影をみてみたら背面に

「○○浅吉 嘉永四年生まれ 小山春山塾中退 春山天狗党員との噂」

と書かれていて、年代的に祖父と53歳離れているから、祖父の祖父ということになり、すなわち僕にとっては高祖父と思わしき人物になります。

1864年 天狗党の乱 
筑波山で尊王攘夷をうたい1000人が挙兵し、敦賀にて350人が斬首
当時14歳の浅吉氏が天狗党の乱に参加したかしないかわかりませんが、通っていた塾の小山春山の息子である小山馨三郎は19歳で斬首になっているので関係はあったのでしょう。

この件で連座して、小山春山は石川島人足寄せ場送り、その後は官の仕事について、東京で医業を開業し、墓地は谷中霊園にあるようです。

まさか地元が苛烈な反幕運動に参加していたとはつゆ知らず。
幕末は一部が血で血を洗う抗争をしているだけかとおもっていましたが、身近でも内戦状態だったんですね。

そして途中で逃げたかどうかはわかりませんが、斬首されなかったから、子孫の私がいるということにもなり、首の皮一枚繋がった感があります。

160年経って、浅吉の子孫は石川島で釣りしています。
天狗党最後の地である敦賀にもいってお墓詣りがてら釣りをしたいです。



明治39~42年 1906年~1909年

日比谷の練兵場は青山に移転。
明治36年 1903年に本多清六の設計で日比谷公園開園

大神宮、電燈会社、鉄道会社、内務大臣邸、華族会館、帝国ホテルの表記がみえます。

北の広場には楠公銅像 明治33年 1900年 完成

何年か前に撮った写真です。動いているかのように感じる躍動感と迫力です。後醍醐天皇を迎える図との事です。55年間続いた南北朝時代ですね。明治時代に南朝が正統とされたようですが、結局、北朝側に戻るんですよね。そのあたりちょっとわからないです。政治的な思惑があるのだとおもいます。



関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年

北側から商業会議所、帝国劇場、警視庁
南側には大神宮、電燈会社、愛国生命保険会社
帝国ホテル、華族会館があります。

このなかで愛国生命保険会社を取り上げてみましょう。

1885年に菓子税が定められ、これに反対して鈴木万次郎が廃止をもとめ、1896年菓子税は廃止。
これを期に1897年菓子業者の生命保険をになう愛国生命保険会社を設立。
1924年に第百銀行に買収され、さらに1945年に日本生命に吸収。

日比谷公園側から撮った愛国生命保険会社




昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年

南側に東宝。東宝劇場ってこの時代からあるんですね。

そういえば、日比谷にはゴジラ像もあるし、日比谷ミッドタウンにはTOHOがあります。

あらためて東宝とは

1932年に「健全な娯楽を広く大衆に提供すること」を使命として小林一三により設立とホームページには書かれていましたが、なんだかよくわかりませんでした。

小林一三(いちぞう)とはなんなのかというと

山梨県韮崎市出身で、阪急阪神東宝グループの創始者。

慶應義塾、三井銀行をへて証券会社設立しようとするも立ち消えで失業
箕面有馬電気軌道設立(のちの阪急電鉄)、宝塚唱歌隊設立(のちの宝塚歌劇団)、阪急百貨店設立。

東宝とは東京宝塚劇場の略だったのです えー!!

知らなかったですが、小林一三は西日本の鉄道王なんですね。
しかもグループは拡大し続けている。

西武、東急、東武を合わせたような感じといったら言い過ぎか。と思ったらそうでもなく、日本最大の私鉄グループです。

昭和にはいってから帝劇も運営会社が東宝、日本劇場も東宝ですから、まさにこのあたりは東宝の縄張りということに。

東京の日比谷が阪急グループに支配されていたなんて考えたこともありません。

去年は小林一三生誕100年ということで大々的にキャンペーンをやっていたみたいですが、全然知りませんでした。

この当時は優秀な人物で時の運が合わされば、鉄道系が立身出世の道だったのかと思います。財閥系はおそらく出自を問われる。鉄道系は西武堤、東急後藤、東武根津にイメージされるように出自関係なく剛腕で切り開くイメージ。


○商工会議所、東京会館、帝劇のならびです。

商工会議所、東京会館、帝国劇場



高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年

そういえば東宝の看板映画である

ゴジラマイナス1.0でゴジラが晴海通りを北上して、日劇のところで電車をくわえて、電車に乗っていた浜辺美波が水らしきところに落っこちるのですがそのときは有楽町に海なんてあるかい!と思ったのですが、

この時期はまだ日劇のところにお堀が残っているんですね。

さらには、その後、ゴジラは日劇を粉々に。

「日劇が破壊されています!皆様の思い出とともに、あの日劇が、日本劇場が粉々に崩れ去っていきますっ!!」

と実況のアナウンサーが日劇を連呼。

いろいろと大人の事情のある昨今、日劇を名前を連呼して粉々にしても自社のものだからOKということだったのかもしれません。


第一生命ビルは戦後、GHQが本部をおいた場所。
現在はマッカーサールームを残して解体新築されています。

第一生命ビル



バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年

戦後大正時代から空き地(戦時中はなにか白抜きにする理由の施設があったのかもしれません。)には三井ビルディングが建ちます。1960年竣工。

南側には日生劇場、こちらは石原慎太郎が東急の五島慶太に働きかけ、五島の紹介で日本生命が名乗りをあげたもの1963年完成。

そして2018年 三井グループである三信ビルと三井ビルディングを再開発し、東京ミッドタウン日比谷が完成。

日比谷は財閥系の三井グループと鉄道系の阪急グループの力が強いと地図からは読み取れました。

今回も通りすがりでしたが、さすがに面白いですね。


日比谷は明治以降の歴史が詰まっていますね。うーむ最高だ。

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