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【台東区】朝倉彫塑館(旧朝倉文夫邸) 

7月のお盆に谷中にお墓参りにいきました。
奥さんのお祖母さんの妹さんのお墓という遠縁。そういう遠縁の方と付き合いがあったのはすごいですよね。ある種うらやましいかもしれません。

お寺は長明寺。
大人気のかき氷屋さん(ひみつ堂)の向かいにあります。
いまだかき氷は食べた事はありません。
当時は32・9度という気温。
並んでいる人の忍耐力と体力に驚愕。

遮るもののない炎天下、墓参りすませてあるいていたら、熱中症になりそうになってセブンイレブンに駆け込んでアイスを頬張りました。子連れには厳しい天気。

10月の今みると涼しげですが当時は、遮るものの無い、風通しの悪い、照り返しの強い、とんでもない暑さでした。


お寺からほど近くにある朝倉彫塑館にいってまいりました。

彫刻家 朝倉文夫のアトリエ兼住居で建物が有形文化財、敷地全体が国の名勝 外観から想像もつかないほど庭の池が素晴らしく、建物も広く感じました。中は撮影禁止の場所が多いです。

現在の地図

お寺が多い。
江戸時代の地図をみると朝倉彫塑館の前の通りが天王寺門前町となっている他はほとんどすべてが寺地となっていました。
ということは、地主はほとんどお寺なのかな。

朝倉彫塑館は撮影場所が限られています。
高い天井の展示室には巨大な小村寿太郎像がありました。
リンカーンの座像と雰囲気が似ています。
マンガ日本の歴史で育った私は小村寿太郎に親近感がありましたので、
「おお・・・小村寿太郎だっ・・・」
となりました。

猿のような人のような 題名は「雲」
朝倉文夫は猫が好きだったので猫の彫塑は多くあります。
撮影OKな彫塑。彫塑は彫らないで型を作って金属を流し込んで作るようです。
撮影OKの場所から。この奥に池があります。この池が素晴らしい。建物も素晴らしい。また行きたいです。これからちょうどいい季節になりますね。
猫と戯れる朝倉文夫


五典の池 撮影禁止なのでパンフレットからですが、建物二階から見る庭も非常に良い。パンフレットからだと魅力が10分の1も伝わらないですね・・・


そんな朝倉彫塑館前から東京時層地図。

明治時代初期

周辺お寺が多いです。
北の方に諏訪社、浄光寺、養福寺、天王寺という表記があるだけであとはお寺の卍マークがずらずらずらっと。

明暦の大火以降、幕府の政策によってこの地に移転してきた寺院が多いのだそうです。

明治以降、廃仏毀釈で東京における仏教勢力は大幅に削減されたと感じていたのですが、それでもこの多さ。

ここには谷中霊園ができます。
明治7年 1874年 天王寺の寺域を一部没収して東京府管轄の谷中墓地を開設。

寺域を没収して墓地を作るというのは、いままで見てきた青山霊園や巣鴨の染井霊園とは毛色が違います。

青山霊園は青山家の土地
染井霊園は藤堂家と建部家と巣鴨村、上駒込村の一部

と墓所とはなんの関係もなかったですが、谷中霊園はお寺の土地と関連があります。

うーん、こりゃ朝倉彫塑館周辺というよりも谷中霊園中心に考えた方が良かった。

谷中霊園には朝倉彫塑館の朝倉文夫、徳川慶喜、渋沢栄一、などのお墓があるようです。やっぱり谷中霊園中心で考えるべきだったかもしれません。

明治末期

明治後期にはすでに東北本線が走っています。明治24年 1891年に全線開通
朝倉彫塑館のあるあたりは初音町2丁目

朝倉文夫は東京美術学校を卒業した明治40年 1907年に谷中にアトリエと住居を構え、増改築や敷地の拡張をくりかえして、昭和10年 1935年に現在の形に完成。

なるほど、だから木造とコンクリート造が交じり合った建築になっているんだ。現在の法では修繕時などで弾かれてしまうので、建物自体が有形文化財になって修繕されているのかもしれません。
大正13年築の建物は非公開。

パンフレット

大正時代関東大震災前

関東大震災前の谷中。

すり鉢状の谷になっている土地でもあるし、地震の被害は結構ありそうな感じがします。

が、地震の被害は少なくそれによって、街並みも残されているのだとか。

谷中自体が寺が多くて空間が多く取られているのと、朝倉彫塑館のある場所は台地で地盤が強いというのもあるのでしょう。


昭和初期戦前 昭和10年頃

東京空襲でも谷中は焼失を免れます。

「NHKの古地図でみる東京大空襲」によると日暮里から西に延びている道路の南からは延焼は免れているようです。

ということもあって、朝倉彫塑館も残り、谷中の古い町並みも残っているということになるようです。


高度成長期前夜 1955年頃

今回お墓詣りしたお寺、長明寺なのですが、この時代までは長命寺の表記です。(ただ1855年頃の江戸の地図では長明寺)
長明寺の北の坂にこんな案内板がありました。

再校江戸砂子は絵でも書いてあるのかと思いましたが、文章のみ。
案内板のとおりに「宗林寺前より七面へゆく坂」としか書いてない(笑)

大江戸今昔巡りの1855年頃の地図をみると七面というのは

七面社 別当 延命院 とあり神社なのかなと思いもしましたが、案内板によると日蓮宗の守護神 七面天女を祀る堂

宝暦年間は1751~1764年ですから七面坂は長く親しまれた場所のようです。

バブル期 1990年頃

地図でみると宗林寺と延命院は西と北に位置することがわかります。
七面坂がメインストリームだとすると、北に出来た道は広い。階段は1990年に出来たもの。これが谷中銀座につながるということになります。

ということは谷中銀座は戦後に出来たものかなとしらべてみると1950年代からとの事でした。

イメージとしては戦前からずっと続いている商店街というイメージでしたが、わりと最近だったようです。

歩いているとあまり気が付きませんでしたが、お寺に囲まれている街なんですね。見どころがたくさんありそうです。

次は渋沢栄一や徳川慶喜のお墓も訪ねてみたいとおもいます。寺院も多いので楽しそうです。彫塑館も再び訪れたいところ。あの建物からの池の眺めはもう一度みたいと思えるものでした。
娘は
「ここ(朝倉彫塑館の建物)に住みたいー」
と。子供の直観からも良い場所であることは間違いなさそうです。

(よくよく聞いたらうちの奥さんの叔母さん一家は朝倉彫塑館の隣に住んでいて墓地も谷中霊園にあるんだとか。縁がありました。2023年10月20日加筆)

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