【江東区】深川公園
深川不動で護摩行を見学できると聞いたので行ってみました。
駅は門前仲町駅です。
護摩行の時間まで時間があったので隣の深川公園で時間潰し。
公園は広場と野球グラウンドと遊具がある一般的な公園といったところ。
ちょっと目を引いた構造物があったので写真にとってみました。
まずは・・・
なんの変哲もない公園と思っていましたが都内2番目に出来た公園という歴史がありました。
清澄庭園に行った際に深川図書館は普通の図書館だと思ってスルーしてしまったんですよね。地図でみると近いですし、清澄庭園も素晴らしい場所だったので深川図書館を見るべくまた行きたいです。
こちらが明治43年の資料 深川図書館設立の寄付者一覧
寄付者の筆頭に須崎遊郭三業取締 弁天町 佐藤宗栄さん と名前があります。
須崎遊郭は吉原に匹敵する遊郭で、現在の東陽町一丁目にあったようです。
以前、東陽町の免許センターに行った時に周辺地域を調べたのですが、そこまで気が付きませんでした。東京時層地図をみるとたしかにそれらしき地域がある。洲崎遊郭跡、訪問したいとおもいます。
さらにみていきますと住所が公園地となっている寄付者が。推測すると神社とお寺関係者の方でしょうか。
富岡宣永さんとあります。富岡八幡宮の17代宮司のようです。
石川照勤さんは成田山新勝寺のお坊さんなので、深川不動堂と符合します。
そして、やっぱり目立っちゃうのが福住町の渋沢栄一さんと次男である渋沢篤二さん。
渋沢栄一は一言でいうと、埼玉の農民が将軍付きの幕臣になって、幕府崩壊後は新政府の官僚、そこから実業家になって500以上の企業や学校設立にかかわる。うーん・・マンガにすると陳腐な話になっちゃうほど現実離れしてる人。
すでに福住町には住んでいないと思われますが(飛鳥山に邸宅がある)福住町は終生本籍地としていたようです。思い入れがあったんですね。
他には深川図書館は人気漫画の東京リベンジャーズの聖地となっているようです。子供のおかげでプリキュアも鬼滅の刃もワンピースもスパイファミリーもチエンソーマンも見るようになりました。
野球場の側には巨大な石碑がありました。
日露戦争の忠魂碑 書は渋沢栄一 ここでも渋沢栄一です。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』によると明治39年に揮毫、明治41年の除幕式に参加したようです。かなり大きいです。
忠魂碑のとなりには石造燈明台があります。
設計監督した佐立七治郎の建築は小樽の旧日本郵船小樽支店があるようです。小樽は義母の生まれ育ったところなので行ったことがありますが、海があって山があってとなかなか素敵なところでした。10年くらい前はコンビニなどがつぶれたり衰退していましたが、今はどうでしょうか。
この燈明台は130年もの。これだけの大きさの明治の遺物をいつでも見られる公園内にあるというのはなかなかないと思います。
当時、歌舞伎界で3人の名優を併せて団菊左時代と言っていたようです。9代目市川團十郎は歌舞伎界の頂点、劇聖と呼ばれたとか。
ちょっと歴代の團十郎を調べてみた所、團十郎という名前は江戸時代1660年代から続き、元銀行員で死後に團十郎の名前が贈られた10代目以外は早逝だったり壮絶な経験をしていたりと大変そうでした。
今の団十郎もすでに大変そうです。
今、ユニクロで13代目團十郎襲名記念シャツが売っています。
13代目團十郎は記念シャツ発売に寄せてのコメントの中で9代目についても触れていました。
「9代目という人間は庶民の文化だった歌舞伎をより敷居の高いものにした」
というのが9代目のようです。
ちなみに私は歌舞伎を一回しかみたことがなくて、それもコクーン歌舞伎。演目は天日坊。中村七之助が妖艶すぎて見とれました。
忠魂碑の傍らに小さな石碑がありました。
むむむ・・・これは気になる さっそくアプリの大江戸今昔巡りを開いてみました。
これはスゴイ。明治で消された歴史とでもいいましょうか。
永代寺という立派な寺があり門前は永代寺関係。
門前仲町の門前というのは永代寺門前。
さらには時の鐘。近辺だと浅草寺までいかないと時の鐘がない。このあたりの中心だったということがわかります。
さらには江戸六地蔵六番
江戸六地蔵の一つ、新宿の太宗寺にある地蔵は見たことがあります。街道から江戸への入口付近に建てられたのだとか。
現在、永代寺にあった六地蔵の代わりは谷中の浄名院にあります。
近くの白河の霊巌寺の六地蔵はそのままある。
いったいどうしてしまったんだ永代寺。
そもそもこのあたりは永代島といわれて永代橋も有名だし、その名を冠したこの地域の代表たる永代寺がこんなさっくりなくなることってあるもんなの?
いくらなんでも廃仏毀釈あんまりだ悲劇の永代寺、明治政府の横暴だ。
と、調べてみたところ、深川の其角せんべい(きかくせんべい)さんの記事で謎解きが書かれていました
なんと衝撃。廃仏毀釈で永代寺住職が富岡八幡宮司になる。
なーるほど、江戸時代の構図としてはお寺の住職が神社を管理していたから、そのまま権利関係を移行すれば永代寺の名前が変わっても中の人には影響が出ないというわけか・・・
この話って、富岡八幡だけの話じゃないような気もしてきました。
江戸時代に土地持ち、神社持ちのお寺だったらあるんじゃないかな。
仮の話ですが、新宿の花園神社の別当寺は三光院。三光院が廃寺になる際に住職が花園神社の宮司となることも、富岡八幡の例をみたら可能なわけで・・・。
そのくらいの選択肢は富岡八幡の例をみて残されていそうな気がしてきました。
では東京時層地図へ
今回は現代の地図をスクショし忘れたので、バブル期の地図から現在地を確認します。かなり範囲を広げてしまいました。
明治初期9~19年
ちょうど4つの時期の地図が重なり合う地点ですので見にくいですが、現在の公園の場所にある点々の構造物はなんだろう・・・
永代寺という大きなお寺だったということを考えると、墓跡かなとも思えます。
江戸時代の周辺の名称だった永代寺門前は富岡門前へ。
明治後期 深川図書館のできた時期となります。
富岡1-14
大正時代関東大震災前
江戸明治以来の歴史があり、まだまだ深堀りできる、おもった以上に収穫がある訪問でした。すばらしい。満足です。
門前仲町駅前の深川伊勢屋さんの団子がうますぎてびっくりしました。ここは門前仲町にいったら必須ですね。
次回は深川不動堂と富岡八幡宮です。
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