【港区】有栖川宮記念公園
ある日、広尾駅で降りて有栖川宮記念公園に寄ってきました。
個人的な感想として「あれパリにでも来ちゃったのかな」と思いました。
外国人はお高くとまっているし、日本人もお高くとまっているんですよ。公園は遊具で遊ぶファッションとは思えない親子(全身ブランドでキメキメ)であふれていました。
後にいった麻布十番の下町感とくらべて、なぜこんなにお高いのかと思っていたら、大使館が多いんですよね。
外交使節の最高ランクでその国の特権階級の人がきているわけだから、それはお高くなりますね。
公園の横のお店、ナショナル麻布は値段的にお高いですが、海外感満載なので一見の価値はあります。まだ9月だったのですが本格的ハロウィングッズであふれていました。
ハロウィンといっても全然ピンとこないのですが、アメリカやヨーロッパで流行っている「仮装して死者や霊を偲ぶ、秋の収穫祭」のことのようです。
最近流行らせ始めた日本と違ってあちらさんは昔からやっているから思い入れも違うのでしょう。2024年の渋谷ハロウィンは仮装しているのが外国人が多いと報道やっていました。
アプリ大江戸今昔めぐり 江戸時代末期 1855年頃
現代の地図
このあたり勾配もキツイので、地図でみるほど歩いていくには楽ではないです。有栖川公園前の交差点から中央図書館にいくには高低差もありなかなか苦労します。南側のなにも書かれていない場所はドイツ大使館です。南に見切れているのがフランス大使館。EUの拠点があったりと、周辺の住人がお高いのもわかります。
明治9~19年 1876~1886年
○明治初期には周辺は麻布○○町とよばれていたようです。
○現在のドイツ大使館のところになんらかの建物がたっているのですが、地図がきれてしまっているので確認はできませんでした。(よく見ると海軍用地とかかれているかも)江戸時代末期の地図では5千石の旗本、酒井内蔵助とありました。役職は御小姓組番頭ということですから、かなりの役職です。
○ 南部屋敷があった場所は、現在の中央図書館のところ以外にはなにもたっていません。
土地の半分が崖と池なんて、南部さんも住むことになってがっくりしたんじゃないでしょうか?徳川家としては南部家は平安時代から続く武家だけれど、あまり関係ないし空いているところに行ってもらうかみたいな感じで・・・または、まったく逆で、敷地内に水源があるから南部家は重要視されていたとか。水源がある場所なら上水道つくらなくてもいいですし。とかんがえるなら、めちゃくちゃ良い場所ともいえます。
○この時代は北側の麻布桜田町、麻布三軒家町が栄えていたように地図からはみえます。
明治39~42年 1906年~1909年
○旧南部邸になにもなくなりました。が、南側に南部邸があります。やっぱり坂の上ですよね。
○北側に麻布中学ができます。麻布中学は1900年 明治33年にこの地に移転してきたようです。創始者江原素六、二代目清水由松ともにクリスチャン 明治期の有名学校ってクリスチャンが多いですね。クリスチャンであることでなんらかの経済的な支援も受けられたのではないかと思ったりもします。麻布中学は中学受験御三家、開成、麻布、武蔵。もちろん僕は全然知りませんでした。
○統計局もあることからここはなんでもない土地ではないのか、なにか重要なことがある土地なのかとおもったり。霞が関から遠くないですか?交通の便もそんなに良くない気が・・・なぜなんだろう?たまたまここが開いていたから?そんなわけない気がしてきました。
関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年
○ 高松宮御用地になります。この時代に有栖川親王はすでになくなっていますから、有栖川邸だったわけではないということがわかります。
なぜ、有栖川記念公園なのか。後継ぎがなかった有栖川宮を存続させるために、大正天皇の第3子を有栖川宮の後継、高松宮とし、有栖川宮家の孫を嫁がせることによって宮家の存続をはかったようです。高松宮妃は2歳で結婚相手が決まっていたというから驚きです。
○ 統計局は国勢院に。
○ 東京逓信局が出来ています。やはり中央からの利便性がいいのでしょうか。地図をみたかんじだとそうは思えないのですけれど。
昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年
○高松宮御用地だった場所が、池の部分が記念公園と坂の上の部分が少国民道場となっています。
東京文化財研究所のホームページによると
とありました。
国会図書館デジタルの記事はこちらで、
1,小国民の精神道場
2,教員の修養道場
3,一般男女青年の修養道場
ということのようです。この時代の精神修養とは具体的にはどのようなものかはわかりませんが寄宿舎もあったことから、今風にいうと研修センターのようなものでしょうか。
○ 地図上の秘露公使館 みなさま読めますでしょうか。私は読めませんでしたがペルー公使館のようです。
○ 国勢院が内閣統計局になっています。統計局って重要度が高いとおもうのですが、なぜここにあるの???という疑問を無理やり引っ張りだそうとしましたが、現在の統計局も新宿のはずれにあるので、別に官公庁のど真ん中に置く必要はなさそうです。むしろ静かな場所にあったほうが作業ははかどりそうです。中央官公庁にある程度近く、それでいて交通量が激しくないということが重要なのではないでしょうか。
高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年
○ 戦後、小国民道場は教育研究所となりました。
○ 統計局が自治大学へ。これって普通の大学じゃないんですよね。総務省の地方公務員の高度研修のための施設なんです。
○ 今のドイツ大使館はユーゴスラビア公使館となっています。今はユーゴスラビア自体が無くなっています。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアの6か国です。
島国の日本人には想像もつきませんが、国が割れるというのは衝撃ですね。国が割れたら全体数少なくなって不利なんじゃないかなとは思いますが‥‥とここまで書いて、日本も160年前にはバチバチに内戦していたことを思い出しました。
バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年
○自治大学の中に統計数理研究所ができました。名前からして国のトップクラスに頭脳明晰な人達の集まりです。現在は自治大学校とともに立川に移転した様子です。2009年の資料がでてきたのでここに紹介したいとおもいます。
https://www.ism.ac.jp/gaiyo-news/News/No105.pdf
15年も前の資料なので当時のスタッフの方もお亡くなりになっていたりするのだろうなと、いま健康状態が微妙な私はそう思ったりもします。
この自治大学跡地ですが、現在は巨大な老人ホームになっています。南側にはパキスタン大使館とEUの拠点。そりゃこの辺りはお高くなりますよね・・・。
○そして南部邸跡ですが・・・その跡地に非常に気になる建物が建っていまして、写真にとっていましたので記載したいとおもいます。
高級賃貸物件のようですが、真の高級ともなると、名前もなにも出さないということがわかりました。
この時暑かったので、中央図書館で涼をとったりしながら歩きました。
広尾駅の西側も行ってみたいです。
なぜ広尾が外国の要人が集まる場所なのか、高級賃貸マンションが建つお高い場所なのか、地図をしらべた限りではわかりませんでした。