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【連載小説】 書簡-1(雪舞心計17) 後宮編①

南都。とある歓楽街。

ツェランは今やすっかり見慣れた師兄の背中を見つけ目を疑った。

(なんであの人はここを歩いてるんだ)

よくわからない薬を盛られ、千夏宮で安静にしているはずのトアハが通りを歩いていた。

 今朝までふらふらだった師兄が倒れてはいけない。

 ツェランは後を追うことにした。

 歩きながら、思わずため息をつく。
 思えば南都に来てからというものの、魔性の師兄に振り回されてばかりだ。

 揺らぐ心は暴れ馬と同じだ。少しでも手綱を緩めれば、取り返しのつかない方向へ行ってしまう。道を踏み外してしまえば、どんなみっともないことになるのかわかっているのに口実ができた瞬間、その背を追いかけてしまう。

ふと、ツェランは思わず足を止めた。

(えっ)

 『南楽坊』、と大きく看板が出ている建物にトアハは入って行った。
同じ建物から妓女が出てきて、媚びたねこなで声で違う客を歓待した。
 媚薬で鎮まりきっていない身体を娼婦を呼べるような店で何をしようというのか。

 トアハは男だ。そこらの女より綺麗でも、紛れもない大人の男だ。

 ツェランは呆然と立ち尽くした。

 (こんな仕打ちがあるか)




 そのあと、どうやってひきかえしたのか記憶が曖昧だった。

「あれ。ツェラン兄?」

 ハカンが南楽坊の方角から歩いてきた。
 まるで亡霊を見るように、ツェランは素顔を隠した男を見る。
 高貴な男が男妾と隠れて逢瀬することは珍しいことじゃない。

「…ハカン、お前、南楽坊にいたのか?」

少し考えてハカンは言った。

「ええ。さっきまで大師兄といたんですが時間をズラして帰ろうという話になって」

 帰りに豆腐をもらったんですよ♪とどこか楽しげだ。
 ツェランにまじまじとハカンを見た。

「お前、異国から来たのか?」

 ツェランが初めて千夏宮に足を踏み入れた夜に現れた男は覆面で目元から下を隠していた。
 今は仮面をし、面紗付きの笠を深く被って顔全体を隠している。

「砂漠を越えた西の果てに家族以外には顔を隠さねばならない信仰があると聞いたことがあってな。それかと思ったんだが」

 しかし彼はナムグン性を名乗っている。であれば、母方は少なくともナムグン世家の出で、出身は紅慶州のはずだ。

「ツェラン兄はもの知りですね。私の祖先が異国の出身なんです。祖父の代でこちらに移り住んだんですよ」
「ふうん」

 ツェランは懐から何かを取り出した。書簡のようだ。

「ご側室に渡していただけるか」
「ご側室?どちらのご側室です?」
「ミシル妃の方だ」
「ですが、後宮宛ての手紙でしたら宮内の公文書係を通さなくては」
「これ。ミシルの親族からのごく私的な書簡な。ご側室さまは他愛のない書簡でもいちいち検閲される立場だ。どうせ流行りの打掛が、とか耳飾りが、とかしか書いてないぞ、コレ」
「しかし、あらぬ疑いをかけられてはいけませんから」
「気の利かないやつだな。可愛い娘につっぱねられたらさすがに哀れだろうが。いい、お前が受けとらんなら、私が渡す」

 もう用はない、と言わんばかりに帰ろうとするツェランにハカンは豆腐が入った箱を突き出した。
 ほら見て、と言わんばかりだ。

「今晩は、揚げ出し豆腐です!」

 (それがどうした)





南都紅宮最奥 千夏宮。

 街から戻ったトアハはハクを捕まえた。

「....あいつ。この前、わざとわたしがあいつの視界に入るように妓楼の門をくぐったのに、引き留めるどころか、とんぼ返りしやがった」

(あいつ、ってツェランのことだよな)

「はあ」

 ハクが知る限り、トアハが誰かのことを話すとしたら、たいていツェランのことだった。
 わざとトアハにこれ見よがしに南都の歓楽街を歩かせたのは、実はハカンの差し金だ。しかしいつのまにか主体が切り替わっている。
 ハクは果実酒に氷を入れてくるくるとかき混ぜ、トアハによこす。

(天国の母上さま。お元気ですか。私は千夏宮で一体なにを聞かされているのでしょうか)

 トアハは果実酒を飲み干した。

「表から、堂々と!このわたしが!あの意気地なしの甲斐性なしめ‼︎」

(……のろけかなあ?これ)

 トアハは己がやったことの恥ずかしさにひとしきりハクに暴露すると今度は天氷月を煽った。

「ああっ。そのお酒、強いのに!」

ハクは水をトアハに寄せながら、今夜は長くなるぞ、と覚悟した。

 どうせ長話に付き合わされるのだ。ハクは相談したかったことを、聞いてみることにした。(もちろん、お酒も入っているので、なにか聞き出せるかもしれないという打算もあった)。

「…どうにか、戦を止めることはできないでしょうか」

 戦がはじまれば、真っ先に前線に送られるのは、穀潰しの囚人や奴婢だ。
 ソル氏族の生き残りが、奴婢となった情報は、千夏宮にも入ってきていた。
 その情報が本当ならば、戦が始まれば、ジウォンは前線送りになってしまう。
 ハクはどうしても戦を止めたかった。

「難しいでしょうね」

 思いつめた顔をしたハクにトアハは林檎水を寄せた。

「間者もいまだ突きとめられずにいるし、戦を止めたいのは山々ですが」

 なにより、戦場に立ちたくない。

 しかしすでにトアハは腹をくくって冷静だった。
 なにも、手立てはないのか。
 ハクはうなだれる。

「間者….」
「前に、宮内に忍び込んだ輩は追い出したんですがね」
「? 前にだれか捕まえたんですか?」
「ええ。ハク公子がいらっしゃる前に。見慣れない者だったのですぐわかりましたよ」

 ナムグン氏の門弟及び、南都紅宮の官人は基本的に能力採用だが、その採用基準のなかには容姿も含まれている。
 貴人のそばに侍る機会も多いからだ。

 トアハが出会ったのは、ハランの話では、ヒオクという名の北の剣客らしい。
 ヒオクの容姿は悪くはないが、清廉さもなければ華やかさもない。
 これといった特徴のない顔なので、あのまま放っておけば紛れ込むことは十分できただろうが、トアハに出会ってしまったのが運の尽きだった。

「大師兄。その男、南都から指名手配できますか?」





南都紅宮 後宮。

「宮主さまは琵琶がお好きなんですって」

 琵琶を調弦していたハランにミシルが言った。
 ハランは目をミシルにやっただけで、口を開こうとはしない。
 宮女たちを心をつかみ、支配下においたミシルだったが、このハランという同世代の娘はどうにもつかめなかった。

「そういえば、あなたはとても琵琶がお上手よね。私も手ほどきを受けたいわ」
「わたしよりも、あの者の方が上手く弾く」

 ハランの視線の先を見ると、覆面の男が茶器を用意していた。
 ミシルがハランについてつかめた情報は少なかったが、入内する時に従者を連れていたらしい。
 宦官制度が悪しき風習として廃止された後宮では、男の出入りも許されている。その代わり不義密通や姦通は厳しく裁かれる。
 とはいえ全体的に、南は開放的なのだ。

「彼、確かハカンといったわよね。名前が似てるし、あなたの縁戚よね。縁者の者と一緒に宮中に上がれるなんて羨ましいわ」

 ミシルは豪族の娘だ。娘の入内で一族は宮中で発言力をもったが、チェガル氏やソムン氏のように氏をもつわけではない、無系の出だった。

 ミシルが宮主を射止めることができれば、一族に氏を与えられるかもしれない。

 先代の北の女宮主が寵愛した男妃とその子孫にソムンという氏と計都を授けたように。

 一族に栄光をもたらすため、ミシルはひとり、一族の期待を背負って入内したのだ。
 なんとしてもこの宮中で宮主を射止め、地位を築き、花を咲かせなければならない。

 ハカンはふたりの側室に花茶を出した。ありがとう、とミシルは覆面の男に笑いかける。

 ミシルは心得ていた。
 後宮では、最新の流行を取り入れたファッションが甲冑であり、化粧が武器であり、笑顔と賄賂が処世術であると。

「私にもね、いとこがいるのよ。兄のように一緒に育ったわ。よく文を送ってくれた。手紙を運んでくれた人、なんていったかしら、日雇いの」

 背が高く、男前という言葉を体現したような人だった。
 彼を従者にしてほしいと父に頼み込んだが、叶わなかった。
 ミシルは顔も知らない人に嫁ぐときまで、初めて好きになった人には一緒にいてほしかった。
 宮主に盛った媚薬は不発に終わったが、ミシルは内心安堵していた。

「そう、ツェラン。ツェランといったわね」

 トアハは手をすべらせて湯呑みを落としてしまった。
 湯呑みは割れず、中身は飲み干していたのが幸いだった。
 ハカンは新しいお茶を用意するが、早々にトアハは飲み干した。

 ハランはミシルを改めて見る。そちら方面にいまいち疎いハランにも、それが恋をした女の顔だとなんとなく分かった。

 ミシルは花茶の香りをかいだ。
 胸を焦がすこともなく火傷の跡も残らない。そんな恋だ。しかし、ミシルはすれ違っただけの男のことを名前以外ほとんど知らない。名前だって別の召使から聞き出したのだ。

「あなたにも、そういう人、ひとりくらい故郷にいるでしょう?」

 恋を知らず、清廉なまま宮仕えをする女が圧倒的に多い。
 恋を知って宮中に上がる女は大輪の花を咲かせることができる。
 ただしそれは、やわらかな花びらにやさしく色づけするような儚い恋であることだ。
 そして、満開を見ることができるのは宮主ひとりだ。

 ハランの生まれは南都の心臓部であるここ南都紅宮だ。
 南都を出て紅慶にある別邸で過ごしていた時、たまたま宮主だった父の趣味で開いていた書店でひとりの男に出会った。

「….そういう経験はあまりない。けど昔、北からきたある人に一度だけ、教えを受けたことがある。大人の男の人だった。突然だったから驚いてお茶を出さなかった」

 人をもてなす時はお茶を出す。3歳児でも知っている南の風習だ。

 トアハはほとんど感情を表に出さない師妹を見る。

 (へえ、そんな人がいたのか)

 ハランは感情の揺れや動揺を人に悟られないように振る舞うことに昔から長けていたから意外だった。
 彼女の母カジンひとりにのみ師事したものとばかり思っていた。

「それはいけないわ。それで、どうなったの?」
「雨宿りしに来ただけだから、お茶はいらないって」
「どんな人?」
「北の貴族」

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