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受け入れる
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友人の話。
彼女の旦那様は若い頃バイクの事故で片足を失くし、義足を付けています。2人は事故の後に出会い、結婚しました。彼女は言います。
「彼はいまだにふとした時に『足がここ(足の付け根)から生えてくればいいのに』っていうのよ。もう何十年も前のことでとっくにそんなことは思わなくなったと思っていても、でも、言うのよね。別に怪我を受け入れてないって事ではないんだと思うけど。
ホントに軽い感じにふと言うの、、、」
多分、彼女の旦那様は、怪我も足を失ったこともちゃんと自分の中で消化して受け入れていらっしゃるのだと思います。それでもふとした時に出る『足が生えてくればいいのに』の言葉は障害を受け入れてもなお湧き出てくる本音のようなものかもしれません。
この話を聞いた時、自分の考えを少なからず反省し、恥じ入りました。
療育を生業(なりわい)としていると、当たり前のように出てくる「障害受容」という言葉。保護者の方と話しても研修を受けても、我が子の障害を受け入れ、自分の中で消化することの難しさをいつも感じます。
私はただ難しさを感じるだけでなく、沢山のエピソードや事例を聞いたり学んだりするうちに、あたかも気持ちをわかっているかのように勘違いし、
「障害を受け入れるって難しいよね」
などと軽く口にしていたことに気が付いたのです。
そのほんとうの意味も苦しさもわかりっこないのに、
「障害受容って難しい」
と、さも全てを理解しているかのように軽々しく言ってしまっていました。
本当のところはわかっていないのです。「受け入れる」過程は人それぞれ異なるし、気持ちの整理の仕方もその後の向き合い方もみんなみんな違います。「受け入れる」ことがどんなことなのかさえわかっていないことを、私が「受け入れ」なければ。そうでないと相手だって本当の意味で私を信用できないにちがいない。
以前、我が子に障害のある友人が言っていました。
「母親が書いた障害児育児の本は絶対読まない。だって、わたしあんなに努力できないもの」
仕事柄、障害に関する本はよく読みます。が、その時も何でもかんでも軽い気持ちで他人に本をすすめる自分をおおいに反省しました。どうも私は知ったかぶりでおせっかい、その上浅はかな部分も多い人間のようです。
そんな話もまた今度。