見出し画像

「光る君へ」 第40回 君を置きて

>扉絵
カッとして(また)やってしまった。後悔はしていない。
貴様はもはやテレビではないサンドバッグだ!

*・*・*・*・*・*・*・*・*

ソウルメイト場面はほとんどなかったにも関わらず、ひどい回(語彙力)だった。
主上お隠れの回なのに。
主上役の塩野さんはもはや一条天皇についての文を読む時、頭の中で彼の姿・声で再現されるくらいに完璧な「実写版主上」だった。
そんなこのドラマ唯一の「解釈完全一致」人物がいなくなるのは視聴意欲には大打撃。
でも考えようによっては(悲しいことだけど)もう主上に関して(定子様含む)おかしな創作に怯え、憤る日々が終わったというのは喜ばしいことかもしれない。
懸案事項の一つが減ったとも言える。
残りの気がかりは行成だけど、やつは道長が生きてる限りは出るだろうからなぁ。。

*・*・*・*・*・*・*・*・*

主上崩御時に道長がやらかした数々がすべてスルーされてたのはちょっと恐ろしくなるレベル。
粛清された人物が集合写真から消されたみたいな。濃いよ!漂白剤濃度。
そんなことするから、今日は新コーナー爆誕しちゃったじゃん。


【今日の道長漂白】←New!

  1. 大江匡衡に行わせた易筮えきぜいに崩御の卦が出たのを見て泣涕きゅうていしていたのを主上が見てしまい、ますます病を重くした。
    →匡衡が占いの結果を説明する場面を主上が見てしまった(道長泣涕せず)。

  2. 匡衡に易筮を行わせた翌日(5月26日)、早くも道長は主上に知らされないまま譲位を発議(「権記」27日条に『昨日から発議されたものである』とある)。翌27日主上が知る。
    →主上自ら譲位を申し出た。

  3. 日記に「崩給」を「萌給」と誤字。
    →「崩給」に直されていた(後述)。

  4. 生前主上は(定子様と同じく)土葬を望んでいたのに、7月8日、荼毘に付される。道長は翌9日になってそのことを「思い出した」。
    →本編なし。少しだけ「紀行」で火葬して埋葬されたことに触れたのみ。

さて主だったところを見ていこう。


主上崩御

寛弘8(1011)年6月22日午刻(午前11〜午後1時)、春秋32。
最期の御製が詠まれたのは崩御の前日で、「権記」にはその時も翌日の崩御時も彰子の居場所についての記載はないのに(「御堂〜」では「御几帳の下」)ドラマでは御簾の内側、横たわる剃髪姿の主上の枕元に彰子がいて、その手を取りながら歌を詠んだことになってた。
…これはもう「“君”は誰か」問題など存在しない世界線の話なんだよな。
あの描写では“問題”を知らない視聴者は彰子に向かって詠んだとしか思わない。
こんな描き方をした後で、行成と道長の日記をチラっと映したところで、何の意味があるの?
わざわざ執筆中の手元を意味ありげに抜くならちゃんと経緯を描けよ!
「史実ガーの人たち」がうるさいから出しといたけど、知らない人にあえて説明する気はない…例によって誠実じゃないんだよなぁやり口が。
相変わらず公式X君は放映後怒涛の更新でスルーしたことのアリバイ工作やってるけど、お茶の間の視聴者はそこまで見ないんだよ。

歌は「…風の宿りに…」の方だったので行成版を採用していた。

露の身の草の宿りに君を置きて塵を出でぬる事をこそ思へ(御堂関白記)
露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事ぞ悲しき(権記)

他にも栄花物語でも微妙に異なる。
上の二首について倉本先生曰く「行成の方が近くにいただろうし、記憶力も耳もいいだろうから行成のが正確なのでは」
ドラマでは最後の句は言えずに崩御。
近くにいたはずの行成は道長とともに御簾の外だった。

放映日の朝の段階で、倉本先生ポストによって『「寄皇后」と「萌給」はやるけどナレ・セリフなし』というのは知っていた。
だから崩御を記す場面では画面に近づいて手元に注目していたら……!!
え!?ちょっと待って…え!?
なんと、驚愕の事実がーーー!!!(大袈裟w)

行成は「寄皇后」と確かに書いてたけど、道長の「⚫︎給」が「⚫︎給」に書き直されていた!!

貴様ぁぁぁぁ!食らえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!

…コワ!!そこまでやる?
気づかれないと思っての所業?
あの有名な誤字さえも漂白するその執念、どこから来るの?

自分は道長個人についてはあまり興味がないし、どうしても対行成という目で見てしまうのでいい印象は持っていない。
でもせっかちで気分屋で怖がりで迂闊で隙だらけ、でも何より強運の持ち主で人心掌握術に長けててトップに立つべくして立った人物だったとは思う。
「崩」を「萌」と書き間違うなんて心の声が漏れたような微笑ましさ?さえ感じるエピソードなのにそこさえ漂白する。
ほとんどの人は見ても気づかないのに。
制作陣に聞きたいけど、漂白しまくって果たして道長のイメージアップになってる(と思ってる)んですか?
史実より面白くなってる(と思ってる)んですか?
この道長は有能にも善人にも悪人にも魅力的にも、全く見えない

最期の御製ぎょせいについて

「どちらに詠みかけた歌か」問題。
主上(役)はインタビューで「視聴者の判断に任せたい」と言ってた。
でも、そもそもそんな問題が存在すること自体を描いてないので「判断」できる視聴者はごく一部だったのでは?(それが狙い?)
平安を知らない視聴者があの演出で定子様を思い出す余地ある?
御製をスルーするわけにはいかない、でも詳細を描くと定子様に触れないわけには行かない(それは避けたい)…で捻り出した苦肉の策があの演出か。
普段、薄っぺらい浅い描写が多いのに、そういう物議を醸す話題については「一部」に向けての意味深長な玉虫演出で煙に巻く、なんか姑息。

さてその御製。
自分の素人主観としては定子様宛と考えたいし、山本淳子先生の論文(「『権記』所載の一条院出離歌について」)を読むと十分その根拠もあると思う。
主上が今際の際に詠みかけた相手が11年も前に亡くなっている最愛の人だった、なんて悲劇であると同時に究極にドラマチックな話だと思う。

でも自分が以前からこの時のことで一番感情を動かされるのは、行成が「あれは皇后(定子様)に向けられた歌だ」と判断したということなんだよな。
(山本先生が書かれているように行成の書く「皇后」が定子様のことを指すという前提で)
中関白家の絶頂期から激動の時期までずっと主上と定子様の傍で仕えてきた行成がそう感じたということ、ここに尽きる。
自分はあまり情緒的な人間ではないんだけど、この時の行成の心情を思う時はさすがにいろんな感情が溢れ出す。
権記においての皇后、前皇后などの書き分けが明確、いや明確ではないなど研究者の説もいろいろだけど、行成は5月に敦成立坊を進言した頃からずっと病悩続きで、あれを書いた時の心理状態もかなり感情的になっていただろうし、いつものように客観的・抑制的な筆運びではいられなかっただろうことを思うと、普段の記載方法と比較しての分析は適当でない気がする。

主上の定子様への想い、主上の行成への思い、行成の主上への思いとこれまでの後悔…お気持ち最優先のこのドラマにぴったりのめちゃくちゃエモーショナルな場面じゃないか!!なのになぜやらない!?
(答え:道長・まひろに無関係だから)

今話を最悪な評価にしたのは崩御場面の直後に、賢子と双寿丸だかのどーーーでもいいドタバタシーンを持ってきたこと。
よりによってあそこにコメディ創作話を割り込ませるセンスが全く理解できない。
葬送のシーンで静かに終わることは出来なかったのか?
(火葬問題が出てくるからスルー?)

今日の行成

うーん、初めこそただ一人敦康を推してたけど、いつの間にか(たいして葛藤するシーンもなく)突然敦成推しに転向し、主上を説得。
その足で道長の直盧に直行する場面では「やりましたー!」感だけだった。
あとで泣いて見せても全然その心中が響かない。
そもそもこれまで行成の出自を全く描いてこなかったから敦成推しも長いものに巻かれろでやったぐらいにしか思われてないんだろうな。
ドラマ初登場がこんな薄っぺらい人物造形で本当に気の毒でならない。

行成の報告を聞いてホッとする道長。
やたら強く安堵してたけど、そもそもそんなに悩んでる様子あったっけ?
どうも道長の人の演技、軽くてよくわからないんだよな。
四納言を前にした場面でも「頼む!」と頭を下げるでもなく、ただ「まずは皆がどう思っておるか知ることが大事だと思ったのだ」というだけで周りが勝手に道長応援団を結成してたし、そんな切羽詰まってたようには見えなかったがな。
まぁそれはともかく、報告を聞いた道長は「またしてもお前に救われた」「行成あっての私である」と言う。

ハイ、口だけー!
なーーにが「行成あっての私」だ!
5月28日に敦成立坊を説得した直後の6月の臨時の叙位で、道長は頼通を正二位に叙す一方、行成が申請していた正二位への昇叙は却下しているくせに!

ところが丞相(道長)は難渋した。運が及ばなかったのか。人を咎めず、天を根まないだけである。後に聞いたところでは、春宮大夫(懐平)が云ったことには、「院(一条院)の御意向を伝え聞くことが有ったので、事情を左府(道長)に申した。左府がおっしゃったことには、『実は天皇は恩容される御意向が有った』と云うことであった」と。

倉本一宏/権記 寛弘6年6月9日条

うわぁ……懐平からそれを聞かされた行成の気持ちよ。。
(ちなみに懐平は実資の兄で、懐平の妻の一人は行成の叔母)
いやそれより「実は」ってつらっと懐平に漏らす道長が一番ムカつく。
もう譲位が決まってたから主上の意向も無視してるし。
行成、そんなこと言ってるからキミはストレスで頓死しちゃうんだ。
もっと「人(道長)を咎め、天(道長)を恨んで」よかったんだぞ!

彰子

敦成立坊をウッキウキの道長から聞かされ激怒。
確かに「権記」には『后宮きさいのみや、丞相を怨み奉り給う』とあるけど、あの怒り方はちょっと唐突というか、キャラ変しすぎというか。
「彰子をそこまで“育てた”のはまひろ」ってポストを見た。そう来ますか。。
「何ゆえ女は〜」のセリフが違和感だったんだけど、あれはこの先50年以上も朝廷の重鎮に君臨するのがこの時のことがキッカケってことにしたいから?
後年政治力を発揮するのは事実だけど、安易な逆算設定だよなぁ。
「賢后」と言った当の実資ですら後年、寺への御幸の華美さに「遊楽のためか」「世は奇怪に思った」「天下の人は上下の者が愁嘆した」「狂乱の極み」とまで書いてるんだけどな。

居貞親王(三条天皇)

この先の対立の原因は道長ではなくあくまでも三条天皇側にあると匂わせたいがためか、やたらと好戦的な人物として描かれてるよな。
先行下げパターン。
今後道長がやることも「そうされても仕方ないよね」と許されるから。
そりゃ、敦康のことはちゃんとか考えてるって場面スルーされるはずだわ。


第41回予告 「揺らぎ」
そういえば、前に「1/fゆらぎ」って言葉流行らなかったっけ?(脱線)

・道長「お前との約束を果たすためだ」?
 →この期に及んで何が「まひろの望む世のため」だと言う気なんだ?
・明子「あなたが殺した」?
 →誰?顕信は出家するけど死ぬのはまだ先。社会的な死って意味?
・敦康またおかしなマネさせられそう…
・ききょう、もう出てこなくていいから…
・出たー!妍子、義理の息子に迫る(低俗。しょーもな…)
 →後三条天皇の祖母君になんと不敬な!!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?