御匣殿騒動 その一 行成と繁子のバトル
藤原行成といえば、その勤勉さ、誠実さで一条天皇や道長の信頼も厚い能吏・能書家。「枕草子」では意外に茶目っ気のあるところも描かれ、その日記「権記」は「小右記」と並んでこの時代の貴族の多忙な日常が伺える貴重な資料だ。
「権記」長保2(1000)年8月20日条に面白い記述がある。
長保2年は七日関白と言われた道兼の没後6年目。
この日は、藤原道兼と正妻との遺児が着袴を迎えた日であり、また奇しくも繁子との間に儲けた尊子が一条天皇からめでたく女御宣下を受けた日でもあった。
おもな登場人物と語句を整理しておこう。
・故二条殿/故相府=藤原道兼
・女君=道兼と藤原遠量の娘である正妻との女児(道兼の死後に誕生している)
・家君の丞相/右府=右大臣 藤原顕光(後家となった道兼妻の再婚相手)
・藤中納言=中納言 藤原時光(顕光の弟)
・御匣殿別当、女御=藤原尊子(道兼と繁子との娘)
・女御の母氏=藤原繁子(長保2年時点では平 惟仲と再婚している)
・纏頭=儀式・行事における功労者・使者に対して、褒賞・慰労の意味で「女装束」などを被けること。
・暗戸屋曹司=尊子の局。内裏のどこかは不明。
・苔雄丸=行成の従者、小舎人童
・説孝弁=権左中弁 藤原説孝(繁子家と昵懇、行成の推薦で右中弁→蔵人に昇進)
・家女=行成の妻(源 泰清の娘)
・院、及び左府=東三条院(藤原詮子)、その弟 藤原道長
冒頭、行成は、道兼の死後に誕生した女児の着袴の儀のために顕光邸を訪問し、深夜に帰宅したことを書いている。
夕刻、忙しい蔵人頭の仕事をやりくりして駆けつけたのだろう。
「旧意を思ったので」とあるのは、行成は後年、実資に道長の「恪勤上達部」などとレッテルを貼られるが、若き日は道兼から目をかけられていた。道兼の大饗の裏方を務めたり、道隆、道長時代には見られない春日社への随行もしている。律儀な彼はこの恩顧を忘れず、道兼の死後も未亡人となった妻への拝謁を怠らなかった。
彼女はこの時、顕光と再婚していた。
さて話はこの日の朝に遡る。宮中、清涼殿の朝餉間。
行成は一条天皇から御匣殿別当(尊子)を女御にすべしとの命を承り、退出した。
道兼のもう一人の娘・尊子は、2年前の長徳4年に一条天皇に入内していた。母・繁子はこの頃は平 惟仲と再婚しており、一条天皇の乳母であり詮子や道長とも近く、従三位の典侍としてかなりの力を持っていたらしい。尊子の入内、女御宣下にもそんな“力”が働いていたと思われる(もちろん義父 惟仲の“運動”も)。
さて、退出した行成を待っていたのは…!?
次に続きます。