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「光る君へ」 第29回 母として

もう少し前回の定子様崩御の余韻が描かれると思いきや、全然だった。
葬儀場面もなし。
主上が御簾から出て放心してるカットだけ。
こう、もっとこの時の世の中に漂ってた無常感みたいなのをだな…。
無理か、脚本家はそんなとこに興味ないもんな。
これはそういうドラマじゃなかった。
このドラマ、登場人物だけは多くて群像劇っぽいけど、主役以外は顔見せor賑やかし程度の浅い扱いでしかないんだよな。
比べるのも失礼だがDownton Abbeyとか古くはERとか、登場人物はたくさんでもそれぞれをちゃんと描いててある面ではすごく嫌なやつ(orいいやつ)でも「あの人にもこういう事情が…」と理解できるシーンもあって見ていて飽きないし、物語としての厚みが全然違う。
四納言や実資が道長を褒めるためだけのモブやお笑い担当になってたり、貴公子伊周があんな粗野な脳筋男になってたり…脚本家のストーリーに都合よく改変した姿で出てくるだけで彼らの心理とか私生活が全く描かれない。
越前での宋人とのイチャイチャ描く尺があるなら…。
これはそういうドラマじゃなかった(2回目)。
主上の哀しみも全然伝わってこない。
そして『煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ』はやっぱり取り上げないっぽいな。
今回「これも見つかりました」って出てくるかと期待したんだけど。
ということは、主上の遺詠も描かれない(か彰子向けにされる)の確定か…。
タイトルの「母として」にはまひろだけじゃなく詮子も含まれてたんだな。
でもまひろの「母感」薄くない?


【今日の行成】
定子様崩御後の無常感は側近の行成には特に強かった。
ドラマの行成は完全に喜んで道長の手足になっていて主上との板挟み感は薄く、行成自身の定子様への思いを描く場面は皆無だった。
道長始め朝廷の人々の反応についてもせいぜい驚くシーンだけ。
行成は12/19いとこの成房(散々な描かれ方をした花山側近 義懐の息子)に歌を送っている(歌嫌い?の行成が!)。

『世の中をいかにせましと思いつつ起臥すほどにあけくらすかな』
(世の中をどうしたらいいんだ、と思いながら起き臥す。ただその日を明け暮らしているだけ。情けない)
まさに世間無常の今、見るに触れ聴くに触れ、ただ悲感を催す。(成房は)中でも心中、忍び難い思いを、肝胆を隔てずに伝える人である。

権記 長和2年12月19日条 ※和歌現代語訳は川村裕子先生Xポストより

ここには帝の痛哭を、心の最も深い部分において、受けとめている行成が存在する。「失われたもの」の気高さ、美しさを反芻し、それを滅す政略に加担した、自らの”手の汚れ"を知るがゆえに、この「悲感」は、一入深いのである。
 (権記)甘日、発亥、・・・・・参内候御前、被仰之事甚多、中心難忍者也
ここに至って、両者は固く手を執り合い、悲しみを一つにしている。「皇后定子」の死が、明らかに一条天皇と行成の友愛を深める契機をなしたことを、示唆してやまぬ情景というべきであろう。

枕草子周辺論 下玉利百合子

長保3年正月、成房は出家の意向があったが父の説得もありこの時は断念する。
一方、行成と親しかった源成信(倫子の甥で道長の猶子、23歳)が藤原重家(顕光の一人息子、25歳)と共に三井寺で出家した(2/4)。
前途有望な若者が出家するにはさまざまな理由があったのだろうけど、ちょうど彼らが物心がついた頃から始まった中関白家の時代の終焉を目の当たりにした無常感も無関係ではないだろう。
行成は2/14と3/24に三井寺を訪れている。
周囲の親しかった人々の出家、信心深い行成はどういう思いで見ていたのか。


さて例によって雑な感想を。

  • ききょうが枕草子を持参しまひろ宅へ。まひろの上から発言にイラッとした。
    「人には光もあれば影もあります」「人とはそういう生き物なのです」…
    主役を漂白しまくっててなにを言わすやら。
    まひろ、そんな大そうな人生訓を人に語れるほどの経験してきたっけ?
    もう物語を書き始めてて作家の先輩として言うならともかく。

  • この場面のききょうが語る「左大臣」の所業はリアル道長がやったことなんだけど、ドラマでは全部道長が「私利私欲でなく世の安寧のためにやった」テイで描かれてきたんだよな。
    だからドラマ道長しか知らない人はききょうがただ難癖つけてると受け取るんじゃないの?それが狙い?
    中関白家一味感じ悪い〜陰湿〜みたいな。

  • ききょうのセリフの後のまひろの「夫は左大臣に取り立てていただいて感謝しておりましたけど…」って、トンチンカンな応答じゃない?
    お前の夫がどう感じようが今はそういう話じゃないんだよ!イライラ

  • まひろ、宣孝に「宋人とは」を語る。
    てか、数人と関わっただけで主語がでかいし、キミ、結構楽しんでたよね?
    「扱いは難しかった」ってこれまた上から発言だな。
    全然「扱って」なかったけど?
    むしろキミは脇の甘さにつけ込まれて「扱われてた」側じゃん。

  • 宣孝、まさかのナレ死(文死)。しょうがないけど、あっけない。
    しかし実際「北の方」の命で妾それぞれにこんな通達するもんなんだろうか。

  • 彰子に敦康を養育させることに。
    これまた詮子が道長に進言したと改変(ほんとは行成 ※ 後述)。
    「昔、父上(兼家)が懐仁(主上)を東三条殿に人質に取ったように」
    敦康が人質???
    兼家と円融は対立もしてたけど懐仁を次期東宮にしたいという点では一致してた。
    だから「人質」としての価値はあった。道長と主上はこの点違うよな。
    道長は彰子腹の皇子の方を待ち望んでるんだから。
    円融皇統を残したいのは詮子の方じゃないの。
    この詮子って兼家に恨まみがましいこと言う割には同じことを平気でやろうとするよな。
    そもそも自分の孫を「人質」なんて言う??
    このドラマの詮子なら媄子様なんて絶対引き取らんわ。
    無欲の道長は詮子の進言を「そんなまねはしたくない」と反発。
    キミいつも一回は拒否するけど結局言われた通りやるよね。
    「だって詮子(or晴明)が言うからー」ってか?
    そして進言する時は自分が思いついたみたいになってるんだよな。
    案の定、そのまま主上に奏上、あっさり承諾される。

    実際は行成が長保3年2/28敦康親王家の別当に補されて以来「一条に拝謁するごとに、後漢の明帝(顕宗)が馬皇后に粛宗(後の章帝)を愛養させた故事を上奏し、彰子に敦康を養育させることを提言していた」からで、それが「今日に至って、この事を遂げたのである」(権記 長保3年8/3条)。
    行成は敦康親王のためには伊周より道長の許にいた方がいいと思ったんだろうし、道長にしても現状彰子が子を産むことは当分なく、万が一今後皇子が生まれなかった場合のことを考えると、敦康を伊周から離して自分サイドにキープしておくことは大きなメリットだったはず。
    別にこのまんま、事実の描写でいいじゃん。
    なんで人質、とか物騒な言葉使うんだろ。
    道長にとっては「人質」というより「保険」だよな。

  • 主上が御匣殿を寵愛するようになったのを知って敦康を彰子の許に置けばもっと主上のお渡りが増えると目論んだのももちろんある。
    御匣殿の懐妊を知ってガックリ来ただろうけど、これでまた御匣殿が身重のまま亡くなるとこが道長の悪運の強さなんだよな。
    …道長こそ呪詛してたんじゃないの。。

  • 松にスパルタ教育をする伊周……また“武士モード”入ってない?
    武道教えてるんじゃないんだからさ。。。お家再興のためとかさ。
    あんな声張り上げて…あれじゃただのDV親父だ。
    にしても「お家再興のため」舞を練習ってどういうこと??

  • ききょう(清少納言)伊周にダイレクト営業。経房「…」。

  • 10/9土御門殿で詮子の四十の賀。有名な童舞のエピソード。
    倫子腹の田鶴(頼通)より明子腹の巌(頼宗)の出来が素晴らしくて巌の舞の師が栄爵を賜ったことから道長が不機嫌になり(倫子、彰子への配慮?)主上を迎えているにもかかわらず、寝所に引きこもってしまった一件。
    主上の再三の呼び出しに仕方なく戻ってきたけど、ずっと不快な顔をしてた…これこそ瞬間湯沸かし器の道長らしい面白エピじゃないか。
    それが!!「道長が悔し泣きをした田鶴を叱って一同に詫びた」…???
    そのまま通説通りやった方が面白いことを主人公漂白のために改変してつまらなくしてばかりじゃないか?

  • 甥っ子の舞に感動して泣く俊賢w

  • 考えたらこれ、まだ定子様の服喪期間なんだよな。
    祝い事を「華やかに」行っていいの?(実際やってるんだけど)
    私邸でのことだからいいんだろうか。でも「皇后」崩御なのに。
    詮子にとっては初孫の母親なのに。
    この賀の直後の23日、道長が内裏の庚申待に参入し作文・管弦を催したけど、行成は渋々参加はしたものの「皇后は国母なり。期年の喪、未だ其の服、おわらず。…」と書いている(権記)。
    こういう面を描いて欲しかったんだよな。

  • 詮子倒れる。ドラマでは四十の賀の最中だったけど、実際は12月に入ってから。詮子、主上に「帝に穢れがつくから触るな!」と言って制止したけど、同じ空間にいるのがすでにまずいんじゃない?
    主上だけでなく道長に穢がついても政務が滞るのでは(屁理屈)。
    そういえば久しぶり〜「」!キミの存在、忘れてたわw
    キミ、今回は詮子が「あんな場面でも息子ではなく主上としての政務を重要視した」ってことを描きたくて出てきたのかな?

  • 詮子、今日2人めのあっけない退場(12/22)。今際いまわの言葉として伊周の復位を求めるけど「敦康のため」が唐突に思えたな。
    「定子の忘れ形見」だの「人質」だの言ってたのに。
    実際は行成のうち(三条第)に移ってそこで亡くなってる。
    当然主上は立ち会えず、29日に参内した行成から崩御〜葬送〜埋葬までの様子を報告された。
    でも主上は詮子についてなにも言及しなかった(権記)。

  • 伊周呪詛に邁進。伊周の外戚・縁者が関わったとされる呪詛事件が起こるのは9年後敦成が生まれてからだけど、その間ずっと呪詛し続けるの?
    そして伊周が関わったかも怪しいこの事件の「首謀者」として描くのか。。

  • 伊周、主上に「枕草子」ダイレクト営業。経房「……」。
    最後の枕草子が「道長を脅かすこととなる」ってどういうこと?
    主人公を「脅かす」?
    またそんな特級呪物みたいな負の印象を植え付けるような言い方やめろって。
    ナレーションで変な誘導すんなって前も書いたよね!!
    あ!でも少なくともこのドラマを脅かしてるのは確かかもww
    枕草子のおかげでこのドラマの中関白家描写が改変モノだとバレてるもんね。
    権記や小右記もかなりの敵(このドラマの)だけど、そこはまぁ公式X君が都合のいいとこだけ切り取って事実っぽく見せてるからセーフ。

  • 伊周、復位はしたけど、復任はまだ。一足先に隆家が翌長保4年に権中納言に復任する。伊周の復任(というか座次決定)と実際に昇殿が許されるのは寛弘2年(1005)年主上と敦康の対面・脩子様着裳の儀の時。
    今日のシーンだと復位=昇殿許されたことになってんのかな。


【今日のソウルメイト】
間接的にはあったけど、対面シーンなし。
このぐらいの距離感なら「ソウルメイト」扱いを許容してやってもいい(何様)。


第29回 「つながる言の葉」

夫の死から三年、は四条宮の女房達に和歌を教えながら自作の物語を披露し、都中で話題になっていた。ある日、そこに歌人のあかねがやってくる。自由奔放なあかねに、どこか心ひかれるのだった。その頃、宮中では「枕草子」が流行していた。「枕草子」を読んでは亡き定子を思う一条天皇。道長は気をもみ、安倍晴明に相談すると…

公式サイトよりあらすじ

予告動画では今回より3年後(寛弘元年?)の設定で行成以外髭ver.に。
四条宮って公任んちか。その和歌教室も道長の口利き?
あ〜枕草子が道長を脅かすってそう言う意味?また大袈裟な…。
だからその対抗馬としてソウルメイトに別の物語を書かせるという筋書きね。
そしてまた道長君、晴明を頼るの巻w
もうお姉ちゃんいないもんね。
和泉式部が登場と。今度は「あかね」??
「自由奔放なあかねにどこかひかれる」…キミも十分自由奔放だけどね。
賢子だけまともな名前なのはなぜ?

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