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プーシキン『大尉の娘』 ドキュメンタリーかドラマか

おはようございます。
毎日編み物をしながら暮らしているアランアミです。

昨日の編み物🧶

カーディガンは10段編んで30段になりました
サマートップスは31段に。
カルディでもらったアイスコーヒーのフライヤーを隣に置いてみたけど、私は夏でもコーヒーはホット派です。

今日で『大尉の娘』のお話は最後でーす。

前回までの記事はこちら


なぜか2日目だけリンクが貼れません🥲

今回は物語の内容ではなく作者プーシキンが『大尉の娘』を執筆するまでの経緯を見ていきたいと思います。

どこまでならフィクションにして良いのか

プーシキンの当初の構想では“自らプガチョーフに加わる貴族”を想定していましたが、反乱史の資料をあたる中でそれは断念します。
どう考えても貴族である主人公がプガチョーフの「共謀者」になるのは無理があると判断したそうです。

そして最初は小説ではなく歴史書として『プガチョーフ反乱史』を編纂します。

小説としてではなく歴史として扱った方が良いとプーシキンは思ったのですね。

プーシキンの歴史に対する情熱に関するエピソードで面白いものがあります。

プーシキンは半年後には家庭の事情や経済状況を理由に退職届を提出したが、その際、「これまで通りの古文書局の利用許可」をあわせて申し出た。退職願は受理されたが、古文書局への出入りも禁じられた。先輩詩人ヴァシーリー・ジュコーフスキーに促されて、プーシキンは詫び状を提出して退職願を撤回する。「古文書局の利用」が彼にとっていかに大切であったか、あるいはもう一歩踏み込んで言えば、彼の「歴史」に対する情熱がいかに激しいものであったかが理解できるだろう。
『大尉の娘』(光文社古典新訳文庫) 解説

退職願を取り下げてでも古文書局への出入りは死守しなければいけないものだったようです。

『大尉の娘』を一読するだけではプーシキンの小説家としての顔しか見えませんが、解説を踏まえて読むと並々ならぬ歴史への探究心がうかがえて興味を惹かれました。

さらにいうなら歴史書を作ってから小説に落とし込んでいったのではなく、最初の構想の段階で小説として表現しようとしていたのがまた面白いなと思ったのです。

その結果、私はこの本を2回読んでしまいました。

ドラマにできるギリギリのラインを狙う

主人公がプガチョーフの「共謀者」になるのは無理がある、そう判断したプーシキンは資料の読み込みや当時のことを知る人へのインタビューなどを通して主人公を事件の「目撃者」として設定することにしました。

歴史をドラマにするときにこのギリギリのラインを設定するのは重要なんじゃないかなと思いました。

大河ドラマを始め漫画でも歴史物って結構ありますが、あまりにもその歴史の背景を無視していると見ている方がちょっと覚めてしまうというか。

フィクションなんだけど見ている方は「もしかしたらこれは事実?」と思い込んでしまうような作品が人を惹きつけるのかも、と思いました。

「異化」という考え方

歴史書としての『プガチョーフ反乱史』と小説である『大尉の娘』の違いについて訳者の坂庭淳史さんが解説の中で言及しています。

『反乱史』と『大尉の娘』の違い、あるいは『大尉の娘』の文学的特徴とは、外面的な「歴史」だけでなく、一人一人の人間、「時間」の豊かさに目を向け、その交錯や連結を描いたことだろう。第十章の「オレンブルグ包囲については書かないでおく。これは家族の覚書というより、歴史に属する事柄だろう」という言葉を思い出そう。小説の中では、プガチョーフの蜂起と壊滅に劣らぬほど、ミローノフ夫妻の最後のキスがドラマチックだ。客観的で生データのような印象がある『反乱史』では、異化は起こらない。そして『反乱史』では断絶したままの「貴族」と「民衆」の間を、階層の壁を越え、糸を通すようにグリニョーフやマーシャといった普通の人たちが躍動している。
『大尉の娘』(光文社古典新訳文庫) 解説

この中で「異化」という言葉が出てきます。
ウィキペディアでは“慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。”と説明されています。
要するにドラマチックにするということなのかな。

この「異化」という概念が歴史書と物語の大きな違いに影響しているんだなぁと思いました。

自分が書くnoteの文章はどうだろうか。

ということで以上で『大尉の娘』を読んで私が気になったポイントのお話は終了です。
お付き合いいただいか方、ありがとうございます。

Kindle Unlimitedで読めますので、興味が湧いた方はご一読ください。

ではでは、良い1日を〜

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