恋の様相ー歌謡曲とJポップからみるその変化ー(2)閉じる恋、逃げる恋
60年代から70年代初期は日本には高度経済成長という大きな熱がうずまいていた。それは人々に安定と豊かさをもたらすとともに、社会の大きな矛盾抱え込んでいった時代だ。
米国ではベトナム戦争に反対するフォークソングが、少しあとに英国ではビートルズが若者の心をつかみ、日本でも学園紛争の吹き荒れるなか学生たちはギターを抱えて反戦歌のコードを熱心に覚えて、それを女の子にモテるためにかき鳴らしたのだ。
吉田拓郎はその頃、「イメージの詩」で社会に対しての批判と抵抗を、強固な内省の檻に閉じ込めて歌った。檻からは、触れれば血のでそうな鋭利な切っ先が覗いているのに。彼はそれから後に、「結婚しようよ」という歌でフォークソングを「ニューミュージック」に変身させた。
「結婚しようよ」という歌はすでにフォークソングと呼べないほど批判も抵抗も含まず屈託なく明るい。「髪が肩まで伸びて、君と同じに」なることで二人の時代性と平等性を担保しようとするが、彼は春の花畑のなか笑顔を見せる彼女をさらって、つまり誘拐して、おとぎ話の男女の役割に忠実に、メルヘンの教会で結婚しようというのだ。
あれほどの批判性をもった作者は、ひとつの時代の終わりに合わせ、「旅の宿」をはじめとする情感あふれる愛の物語を紡いでいく。それはこの時代のどうにもならない社会の問題からひたすら逃避し、親世代がしばらく持てなかった豊かさと安定を享受しようとした人々の心が求めたものだ。つまり吉田拓郎のニューミュージックとしての恋歌は、我々からひりひりした社会の痛みを隠してくれたのではなかったか。
だから、彼は1974年「襟裳岬」で悲しみを暖炉で燃やさなければならなかったし、1996年には「全部抱きしめて」君と歩いて行こうと言ってくれるのである。
しかし愛はこの時代でも持続困難。「あの素晴らしい愛をもう一度」(1971年 作詞:北山修 作曲:加藤和彦)で歌われるように、かってふたりの間にあった素晴らしい愛は今はない。愛の実体とは、見えないが一時は通い合ったとふたりが信じたこころである。しかし、それがなぜか通い合わなくなった今はただ茫然と「もう一度」と願うのみ。ふたりの間ではじまりふたりの間でわる恋は、抽象のまま社会に対し閉じている。
安定し豊かさへと歩む社会のなかでひとびとは、互いに優しくおとなしくなっていく。若さとはもう粗野で無謀な暴発性のものではない。
「ニューミュージック」はその後「Jポップ」と呼称されるようになる。彼らの世界では、愛は互いに傷つけあうことを拒み、二人の間の距離は切ない寂しさとなる。
しかしこの時代、くっきりと別の歌謡のジャンルがあった。演歌や艶歌とよばれた世界ではまた別の恋の様相があったのだろうが、別の機会に。
(つづく(かもしれない))
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