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社会はいつだって「世も末」? 厭世的思想に用心しよう、な話。

 「世も末だ」なんて言葉は古代から言われてた、てのは『アシモフの雑学コレクション』で知りましたね。改めて読んでみると、

「世も末だ。未来は明るくない。賄賂や不正の横行は、目に余る」
  今の話じゃありませんよ。紀元前2800年頃、古代アッシリア文明において記された粘土板に記されていたそうです。ついでに書くと

「最近の若者はなんだ。目上の者を尊敬せず、親に反抗、法律は無視。妄想にふけって街で暴れる。道徳心のかけらもない。このままだと、どうなる」   
 プラトンが自分の弟子について語った言葉だとか。著名な哲学者が自分の弟子に対してこう言うのであれば、当時の一般人も「最近の若いやつは」なんて考えてただろうと想像できますね。いつの時代でもそこは同じ。

 ではなぜそう考えてしまう(しまいがちになる)のか? この記事でまず気になったのはこの部分ですね。

 また興味深いことに「道徳が荒廃している」との答えは、国や文化、保守性、リベラルさ、人種、性別、年齢、教育レベルが違っても共通していることが判明します。

 なので、誰かさんが「世も末だ」と嘆いても、その人の出身地や、発言者本人の思想がそうさせているからではない、てことになります。じゃあ、思想が無関係ならなんでそうなるの? と疑問に思いますが、それに対してとても興味深い答えと事実を記しています。

 「道徳の荒廃が進行しているか?」という質問をされたとき、多くの人々は「社会全般」の道徳に関する印象を述べる、というのです。

 「社会全般の印象のどこが問題なのか?」と疑問に思うかもしれません。
 しかし「社会全般」の印象を尋ねるアンケートでは、しばしば参加者自身や身近にいる人々については、考慮の外に置かれることが知られていました。
 参加者は社会全般の印象を尋ねられるときには「自分の知らない人々」について答えを出すからです。
 よりわかりやすく言えば「道徳が急速に荒廃している」と答えた参加者であっても、自分自身や自分の家族や友達の道徳性までは疑っていないケースがあるのです。

 「自分の知らない人たち」。これが肝ですね。調査結果を精査した結果、「ではご自身やあなたの周囲の人達は、不道徳になったと思いますか?」という問いに対しては「そうでもない」と答えた方が圧倒的に多かったそうです。なら世も末だ、なんて答えは本来出てこないはずですね? なのにそう考えてしまう。
 
 そこで先の記事ではズバリ指摘します。

 この結果は、参加者たちは社会全般の道徳が日に日に荒廃しているとの「印象」を持っていても、参加者自身や参加者の周囲にいる人々から「実際に観察」される道徳性は変らず維持されていることを示しています。

つまり「悪くなった」という「印象」でしかないのです。

 じゃあ「印象」を与えているのは何か? 記事ではさらに突っ込んだ答えを出してきます。

 一つは、人類が築く情報ネットワークは「道徳的にスゴイ」というニュースよりも「道徳的に許せない」ニュースのほうを好んで伝達する性質があること。これを「偏った情報暴露」と呼んでいます。
 そりゃそうですね。許せない方を断罪すれば、誰でも一時的に胸がすく思いになれるわけですから。そして「許せない」と思えた事案に対しアレコレ一人談義し、最後に世の中への嘆き節を掛けば簡単に正義感を得られる、こんな楽な行為はないわけで。

 一つは「(誰しも)が過去を美化するフィルター」を持っていること。嫌な経験よりも嬉しい経験の方がより脳に残りやすく、おまけにそれは個人的経験に限らず、社会全般における「良いニュース」「悪いニュース」にも言えてしまうのだ、と。
 無論トラウマレベルの経験を持つ方も当然いるでしょうが、それでもデータを統合するとやはり嬉しい経験というのは優先的に記憶されるのだそうです。一方で直近の世界は嬉しい経験と悪い経験がそのままの比率で記憶されるため、どうしても「昔よりも良くない」と判断してしまう、とあります。

 じゃあトラウマはどうなるんだ、とやはり疑問に思いますが、これも
「昔はよかった、あれさえなければ
 と考えてしまうからではないかと。あれさえなければ自分はもっと良い過去の記憶を持てた、という願望をずっと抱いてしまうほどの「トラウマ」なんです。そうなってしまうのも、やはり過去を美化するフィルターがあるゆえなのでしょう。


 記事の結論では、道徳的荒廃を訴えてくる人間の言葉を十分注意して聴くべきだ、とあります。

 この「道徳的荒廃の錯覚」は権力を握ろうとする独裁者や政治家、信者を増やしたいだけの宗教家に利用される傾向があります。
 扇動が巧みなヒットラーも道徳的荒廃の利用価値に着目し、自らを道徳的荒廃から救う唯一の存在だと喧伝しました。
 同様の手法は現在でもつかわれており「国の立て直し」「積弊の清算」「再び偉大な国を目指す」「退廃的政治の大掃除」といった言葉で、政策の魅力を伝えようとする例が見受けられます。

 いやいや、何も権力者に限ったことではないでしょう。政治的な話に限らず、ひたすら厭世的なことばかり書き記し、世間を嘆いて将来を悲観するようなTweetばかりしているか、あるいはそういった呟きばかりをリツイートしてくる人が。正直そういう文章を読んでいる方が嫌になります。
 無論、時折嘆くことがあっても、それと同じくらいにご自身の趣味や偏愛、おバカなネタも巡回させてくれる方なら普通だと思えるのですが、時折あまりの厭世度合いに「大丈夫ですか?」と心配になるレベルの方をお見かけします。好きが見えてこないのはさすがに不味いですよ。

 それゆえ、自分はこっちに軸足を置くようになりました。毎日書くことで、少しでもいいからそんな厭世的思想と距離を取ってます。そうでなければこうも偏屈なnoteなんか産まれてませんって。記事を作るにしても
「特撮モノの感想」「遊んだボドゲ」「旨い飯食った記録」「模型作った」
とか。自分で自分を楽しくしてナンボですよ?

 なに、現実逃避? 「世も末だという『印象』」に振り回されるよりも断然マシですって。往生際が悪いからね、あたしゃ。

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