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ラウラ・シタレラ『トレンケ・ラウケン』/分類不能な迷宮への讃歌

 ラウラ・シタレラ監督によるアルゼンチン映画『トレンケ・ラウケン』が、2024年12月27日(金)~30日(月)、下高井戸シネマで上映される。

 「2023年のカイエ・デュ・シネマ誌で年間第1位に選ばれた」という惹句がなくとも、本作が現代映画において最も重要な作品であることは疑う余地がない。私も以前からさまざまな言葉を尽くして本作の魅力を伝えようとしてきたが、傑作という言葉では到底言い足りない。映画観が塗り替わる恐るべき4時間である。とにかく是非観てほしい。

 日本ではこれまでラウラ・シタレラ及びエル・パンペロ・シネ(アルゼンチンの映画製作集団)の作品がほとんど公開されてこなかったため、本作を語るうえでの補助線が乏しいのが現状である。そこで、『トレンケ・ラウケン』とラウラ・シタレラの過去作を概観し、鋭い考察を加えている記事を紹介したい。

 アルゼンチンの芸術学の教授フアン・ヴェリスとペルーの映画評論家アダルベルト・フォンケンが共同執筆した記事「Southern Breezes: Re-readings and Drifts in Laura Citarella’s Cinema」である。長大な記事であるが、このうちほんの一部(8分の1程度)を抄訳する。本作の謎解きの共犯者になっていただければ幸いである。


イントロダクション

 独特のスタイルとテーマの複雑さを特徴とするラウラ・シタレラの映画は、エル・パンペロ・シネへの参加によって大きく形作られた。彼女の映画は、美的選択と豊かな物語構造を独自に融合させ、さまざまな手法を採用し、メタフィクションの領域にまで広がっている。この複雑な物語は、映画のテーマの奥深さを反映し、冗長なやり取りから長い沈黙まで、さまざまなセリフによって支えられている。

 シタレラの作品におけるミザンセーヌとモンタージュは、観客の空間認識を形作る上で重要な役割を果たし、陰鬱な雰囲気と疎外感や曖昧さを並置する瞑想的な環境を作り出す。この視覚戦略は、物語性を高めるだけでなく、神秘的で言葉にできない風景を旅する登場人物の旅とも調和する。

 本稿は、エル・パンペロ・シネとのコラボレーションに焦点を当て、シタレラの映画言語の核となる要素を分析することを目的としている。彼女の映画が、曖昧さや疎外といったスタイルをどのように活用して、冒険、ミステリー、スパイといったジャンルが絡み合う複雑な物語を織り成しているかを探る。さらに、登場人物が同一化、非自然化、転移のプロセスを経験する、彼女の超自然的テーマの探求を掘り下げる。

 初長編『Ostende』から『トレンケ・ラウケン』までの映画を検証し、シタレラの独特な美的感覚とストーリーの選択が、映画表現にどのように貢献し、彼女を現代映画における中心人物として位置付けているかを明らかにする。

濃密な謎、謎めいた登場人物

 『Ostende』と『トレンケ・ラウケン』は、ラウラ・パレデス演じるラウラという主人公が謎を解き明かそうとする点で共通している。ラウラの探求は脇役たちの人生と交差し、大きな物語の中に小さなフィクションを織り込んでいく。『Ostende』では、ラウラはホテルのこじんまりとした窓から外を眺めることで不気味な謎を探るが、その体験は時間と共にサスペンスに満ちた重苦しい雰囲気に変わっていく。『トレンケ・ラウケン』は『Ostende』のスタイルを踏襲しているが、より繊細で瞑想的なタッチが加えられている。このアプローチは、視聴者の共犯的な視線を引き付け、複雑なパズルを作り出す。

 『トレンケ・ラウケン』の物語は、エゼキエル(エゼキエル・ピエリ)とラファエル(ラファエル・スプレゲルブルト)の旅から始まる。彼らは、謎の失踪を遂げたラウラがかつて通った道筋を、ブエノスアイレス州の西端に沿って辿る。彼らの捜索シーンは映画の最後を直線的に締めくくる予定だったが、脚本の書き直しで冒頭に移動され、予測不可能な要素が加わった。彼らの旅はレストランでクライマックスに達し、ラウラとエゼキエルが、教師のカルメンと彼女の恋人パオロとの歴史的な恋愛を調査する回想シーンへと移り、ラウラの声で綴られる手紙を通して語られる。

 主人公のラウラは、生物学者としての研究に不可欠な植物標本を執拗に探している最中に行方不明になる。隠された真実を明らかにしたいという彼女の情熱は、図書館の書簡に隠された古いラブストーリー、そして湖に棲む怪物の伝説へとつながる。物語はロマンス、回想、神話、SFをシームレスに統合する。この複雑なタペストリーは、さまざまな時代と現実を横断するだけでなく、視聴者を魅了し、ラウラと一緒に難解なパズルを組み立てるよう誘う。

疎外と曖昧さ:現実と新しい世界との間

 『トレンケ・ラウケン』はシタレラの以前の作品と比較すると、映画的世界観の大幅な拡大と深化を表している。複雑な登場人物、舞台、田園風景、街路、ぬかるんだ道、アンビエント音楽など、より豊かな要素が展開される。

 エル・パンペロ・シネの美的特徴は、政治的で詩的なものであり、支配的な感覚として日常からの疎外感を醸成することに重点を置いている。それは、表現の不明確さやカメラの禁欲的な距離として理解されるのではなく、むしろ意識的な曖昧さの投影として理解される。ここでいう曖昧さは、映画装置の修辞的かつ表現的な中立性を変化させることを意図した様式的なツールである。シタレラの映画に出現するのは、構成上の余白の領域に議論の正当性を見出す、芸術に対する逃れようのない意志である。それはつまり、ありふれた土地の風景から情熱的で複雑な物語を発明することである。

 慣れ親しんだ世界を触媒として新しい世界を作り出す方法、形式的な混乱を導入することで日常を奇妙に感じさせるシタレラの方法は興味深い。このアプローチは私たちを現実から切り離すのではなく、むしろ私たちを現実の奥深くに引き込み、新たな探究を促す。私たちを取り巻く平凡な日常の中に謎を解き明かし、作り上げること以上にスリリングな創造的活動があるだろうか。

 シタレラの映画で中心となる概念は、精神分析の定義に厳密に縛られることなく、美的な映画技法として疎外を利用することだ。この方法は、ロメールを彷彿とさせる、重要だが見過ごされがちな考えを再びよみがえらせる。すなわち、映画とは、現実の受動的な描写であるだけでなく、詩的な謎の探求でもあるということである。

 自ら新しい世界を構築するか、私たちの文化と土地の中で切実に共鳴する幽霊のような反響を通じて倫理的かつ形式的な真実を明らかにするかのいずれかだ。現実は固定された実体ではなく、謎めいた集積から作り上げられたものだと言うこともできるだろう。この再構築は、『トレンケ・ラウケン』の広大なフレームの中を曲がりくねって進み、物語を通して実体化された目に見えない暗黙の幽霊として現れる。

 『トレンケ・ラウケン』は、地元のラジオ番組の文脈の中で、またクラフトビールを飲みながらの長く思慮深い会話の中で、神話、皮肉、冗長さ、恐怖を重ね合わせている。『トレンケ・ラウケン』(先住民の言葉で丸い湖)には神話上の生き物が潜んでおり、謎めいたジレンマに縛られた2人の恋人の間で、心を打つ書簡形式の謎が展開される。これらの並置の中には、シタレラが意図的な忍耐と感覚的な正確さで表現した、美的かつ物語的な疎外の複雑なタペストリーがあるのだ。


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