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ショーン・ベイカー『ANORA アノーラ』――欲望の資本と制度的暴力の交差点

 『ANORA アノーラ』はアメリカ映画史における階級的寓話とポストモダン的リアリズムの交差点に位置する。古典的なアメリカンドリームの変奏でありながら、その眼差しは根底に潜む欲望の経済学と、新自由主義の中で規定される脆弱性に注がれる。本作はジャンル映画としての文法を踏襲しつつ、社会学的分析に耐えうる複雑なテクストを構築している。

 本作のプロットは表層的にはロマンティック・メロドラマの枠組みを踏襲する。偶然の連鎖による展開はプレストン・スタージェス的なスクリューボール・コメディの変種のようにも映る。しかしショーン・ベイカーの手法はユートピアとしての寓意へと傾斜することはない。階級闘争の視座から資本主義の制度を浮き彫りにし、欲望と恐怖を通じて格差の再生産を映し出す。

 興味深いのはアノーラというキャラクターの位置づけだ。彼女は労働と身体性の境界に立つ存在として機能する。彼女の職業はある種の偶像であり、同時に否応なく労働者階級としての搾取構造に組み込まれている。この二重性が主体性の曖昧さを生み出し、選択の自由とは何かという根源的な問いを突きつける。アノーラは能動的な存在でありながらその選択肢は資本の論理によって制約される。

 映像言語の観点から見ると、本作はベイカーの過去作と同様、ニューリアリズムの伝統を継承しつつ、都市景観の記号学的分析を可能にするフレーミングを採用している。NY、ラスベガス、ロシアの対比は資本主義の異なる位相を視覚的に示し、登場人物の心理的変容と密接に結びつくよう計算されている。特にラスベガスでのシークエンスは、ハリウッド・ゴールデンエイジのコメディに内在する欺瞞を暴くような演出が施され、ロマンティック・イデオロギーの解体が進行する。

 本作が最終的に提示するのは個人の選択と制度的制約の緊張関係である。アノーラの選択は次第に制度的権力の枠組みによって決定されていく。それは構造として描かれるのではなく、ベイカーはその動的な力学を追うことで、愛、自由、欲望の限界を浮かび上がらせる。アントニオーニの『情事』やゴダールの『軽蔑』といった個人の感情と社会の構造が交錯する作品群と連なる。本作が描くのは資本主義の中で生きる女性の物語であり、それはフィクションではなく現実そのものである。


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