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ミゲル・ゴメス『グランド・ツアー』――東洋を彷徨う亡霊たちの終わらぬ逃避行

 消えた婚約者を追いかける女と、世界の果てまで逃げ続ける男。20世紀初頭の東南アジア~東アジアを舞台に、逃走、追跡、記憶、そしてオリエンタリズムが交錯する。ミゲル・ゴメスの映画『グランド・ツアー』(2024年)は地理的にも時間的にも幻のような作品だ。映画は1920年代を舞台にしながらも、撮影は2020年代の日本やミャンマーなどで行われた。画面の中では歴史と現在が入り混じり、旅そのものが虚構の層を重ねながら進んでいく。

 英国の植民地支配下で暮らす外交官のエドワード。婚約者モリーと再会する当日に突然失踪する場面から映画は始まる。彼は得体の知れない不安から逃れるように次々と場所を変えていく。残されたモリーは彼の足跡を追い、旅を続ける。ここでゴメスが仕掛けるのは通常の追走劇とはまったく異なる構造だ。

 2人が旅する風景は1920年代の世界のはずなのに、映し出されるのは現代の風景である。2020年2月に京都、長野、大阪などで撮影が行われたシーンでは、冬の静かな日本の町並みが登場するが、それらは1920年代のアジアを再現するために作られたセットではない。「映画の中で時間をずらすことで、観客が歴史のリアルではなく、歴史という幻想を感じられるようにしたかった」と語るように、現代の風景の中に登場人物たちを配置することで、2人の旅を夢幻的なものへと変えている。

 エドワードの逃走劇には目的地はない。彼はただ、次の町、次の国へと移動し続ける。モリー彼を追いながら、次第に彼自身よりも「追いかけるという行為」に囚われていく。映画が進むにつれ、二人の旅は人間関係のドラマではなく、「追うこと」と「逃げること」そのものが存在理由になるという倒錯した構造へと変化していく。

 『グランド・ツアー』は、一見すると古典的な冒険小説やエドワード・サイードの論じたオリエンタリズムの視点をなぞっているように見える。西洋人の登場人物が未知の東洋を旅し、その過程で自己を発見するという構図は、19世紀以来無数の文学や映画が描いてきたものだ。しかし、ゴメスはその構図を巧妙に裏返す。

 オリエンタリズムを完全に排除することはできないが、それをどう扱うかは映画の手に委ねられている。『グランド・ツアー』のアジアは西洋の夢の中のエキゾチックな舞台ではない。旅を続けるエドワードとモリーが現実を掴もうとすればするほど、その風景はますます幻のように溶けていく。

 映画の中で繰り返し登場するのは地元の人々の視線だ。エドワードもモリーも彼らの生活の前を通り過ぎていく異邦人に過ぎない。彼らが「見る」側ではなく「見られる」存在であることに気づいた瞬間、オリエンタリズムの視点は反転する。エドワードとモリーがもはや異文化を探検する者ではなく、その世界に呑み込まれ、漂流する存在であることを悟る。

 『グランド・ツアー』のもう一つの特徴はその撮影手法にある。アナログフィルムとデジタル撮影を巧みに織り交ぜ、1920年代の記憶と現代の風景を同じスクリーンの中に共存させる。音の使い方にも細心の注意が払われている。1920年代のラジオ放送に現代の都市の雑踏が重ねられ、時間のレイヤーがずれる感覚が強調される。こうしたデザインによって、観客はエドワードとモリーが進む道が現実なのか、それとも彼らの頭の中の幻想なのかを常に曖昧に感じることになる。

 エドワードが逃げる理由は曖昧であり、モリーが追う理由も明確ではない。二人の旅はどこに向かうのか、彼らが最後に出会うのかすら分からない。重要なのは目的地ではなく旅そのものだ。旅は終わらない。むしろ、旅そのものが物語の本質なのだ。

 ミゲル・ゴメスは、歴史、映画、記憶、オリエンタリズム、そして逃走の美学を織り交ぜ、観客を幻惑し続ける。この映画の風景は、1920年代のものでも2020年代のものでもなく、どこにも存在しない映画の中の時間だ。

 2024年カンヌ国際映画祭コンペティション部門で上映。2025年内日本公開予定。

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