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デア・クルムベガスヴィリ『四月』――長回しの静寂が生み出す緊張感と、個人の決断が揺らぐ瞬間

 画面の中で時間は確かに流れている。しかしそれを意識させるものはほとんどない。人物はゆっくりと動き、長い沈黙が続く。会話は簡潔で核心には触れない。その静けさの積み重ねから状況の変化が少しずつ浮かび上がる。デア・クルムベガスヴィリの『四月』は、視覚的な演出を最小限に抑えながら、語られないものによって成り立っている。

 クルムベガスヴィリは長回しを多用する。カメラは動かず、登場人物は画面の奥から手前へと歩き、視線を交わし、やがてフレームの外へ消えていく。画面内での移動や視線の変化だけで場の空気が変わっていく。長回しは下手に真似をすると映画全体の価値を毀損しかねない諸刃の剣である。クルムベガスヴィリの演出はすべての構造に意味があり、意図的に抑制されている。映画の流れに身を委ねているうちに、実はカメラは固定されていないことが分かる。現実を眼差す視線も固定されることなどない。

 クルムベガスヴィリの名前が広く知られるようになったのは、2020年の『ビギニング / Beginning』によってだった。ジョージアの地方都市を舞台に宗教的な共同体の中で生きる女性の葛藤を描いた作品で、サン・セバスティアン国際映画祭で四冠を達成した。視覚的な演出と構成の精密さが評価され、本作にも通じる特徴となっている。

 テーマとなるのは中絶をめぐる選択だ。ジョージアでは法的には認められているものの、社会的な抑圧が強く、女性が自由に選択できる環境とは言いがたい。家族や宗教的な価値観が決定に関与し、地方では医療体制の問題も加わる。法律上の自由と実際の社会的圧力との間には大きな隔たりがある。映画の中では登場人物の行動や周囲の反応を通じてその状況を描いている。

 クルムベガスヴィリの演出は感情を直接的に表現するのではなく、状況の積み重ねによって観客に判断を委ねる。登場人物の心情が明確に示されることはなく、表情や仕草の変化がそれを補完する。音の使い方も抑制され、人物の息遣いや衣擦れが場の緊張感を強調する。『四月』は映像の構成によって物語を形成する作品だ。選択の自由とそれを制約する社会の空気の中で、何が個人の決断を左右するのかを問う。

 2024年ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門でワールドプレミア。日本公開未定。

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