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アニー・ベイカー『Janet Planet』―― 娘の視点から映し出される、母の世界との微妙な距離感

 母と娘の関係を描いた映画は数多い。思春期の少女が親の手を離れ、大人へと向かう過程を通して家族の関係が揺らぐ。そうした従来の母娘映画とは異なる脚本のアプローチをとるのが、アニー・ベイカーの初監督作『Janet Planet』(2023年)だ。対話の中で感情の流れを繊細に描き出し、ドラマの起伏をできる限り抑える。感情の衝突ではなく、時間の流れの中で少しずつ変化していく関係。演劇の世界で間(ま)を重視してきたベイカーならではの視点が生んだ作品だ。

 主人公は11歳の少女レイシー。母ジャネットと二人で暮らしているが、ジャネットは恋愛や仕事に忙しく、娘との時間を持て余しているように見える。レイシーは母の注意を引こうとするが、ジャネットの関心は別のところに向かう。二人の関係は決して冷え切っているわけではないが、親密さの中に微妙な隔たりが生じている。

 ピュリツァー賞受賞者のアニー・ベイカーは現代アメリカ演劇を代表する劇作家のひとり。代表作『The Flick』では小さな映画館のロビーに座る従業員たちの何気ない会話を通じて、社会の片隅に生きる人々の時間を描いた。登場人物同士の関係を説明せず、会話や沈黙の中で徐々に浮かび上がらせる。2016年に新国立劇場で日本人キャストで上演された。

 『Janet Planet』でもストーリーを転換させる台詞がほとんど出てこないかわりに、言葉にしない感情が重要になっている。レイシーの視点を通じて母の世界が観客にも少しずつ明らかになっていく。ジャネットの恋人や友人たちは、それぞれにレイシーと独特な距離感を持ち、レイシーはそこに割り込めないまま観察する立場に置かれる。

 感情の爆発や劇的な衝突はなく、会話の微妙なずれや日常の変化が二人の距離を示している。その変化は唐突ではなく細部に滲む形で表れる。母の言葉を真似しながらも、その意味を完全には理解できないレイシーの振る舞い。ジャネットからすれば普通の会話でも、レイシーの視点からは違った意味を持つ。この視点のギャップが物語の奥行きを生んでいる。

 従来の母娘映画では娘の成長や自立が物語の軸となることが多い。しかし『Janet Planet』ではレイシーはあくまで観察者であり、彼女自身が大きく変化するわけではない。母の世界を眺めることで子どもと大人の間に横たわる溝を認識する。映画はその過程を日常の断片を通して描いていく。

 『Janet Planet』はアニー・ベイカーが舞台から映画へと表現の場を広げたことで生まれた。親密でありながら決して完全には交わらない母と娘の関係。その距離の変化を微妙な表現のコントロールによって浮かび上がらせる。映画の中で何が語られないまま残されるのか。観客はレイシーと同じ視点でジャネットを見つめ、母と娘の曖昧な距離を感じ取ることになる。

 2023年テルライド映画祭でワールドプレミア。日本公開未定。


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