代理人
「ああ、本当にいたのですね」
病室に入ってきたその人を一目見た瞬間、一度も会ったことが無いにもかかわらず、ぼくには彼がずっと探していた『その人』であることがすぐにわかった。
「はじめまして。こんばんは」
彼は見た目通りの柔らかい声でそう言うと、軽やかな風を纏いながらぼくの方へとゆっくりと近付いてくる。どこかで嗅いだことのあるような、懐かしい甘いニオイと一緒に。その匂いを感じた瞬間、ぼくの体は少しだけ重力から解放されたような気がした。
病院の消灯時間はとっくに過ぎた深夜。普通ならこんな時間にこの場所まで訪ねてこられる人などいない。でも、彼は普通の人間ではない。だから、こんな時間にこの場所にいても咎められることが無いのだろう。いや、彼の存在に気が付いているのは、ひょっとしたらぼくだけなのかもしれない。
そんなことを思いながら、ぼくはベッドから体を起こそうとしたが、病に蝕まれ続け筋力が落ちた体ではすぐに体を持ち上げることが出来ず、持ち上げた頭を枕にもう一度着地させる。
「すみません……」
「いえ、そのままで大丈夫ですよ」
手元に転がっているベッドのリクライニングスイッチを取ろうと手を伸ばしたぼくに優しく声をかけると、ベッドの横に置いてある椅子に彼はゆっくりと座った。
「こんなに簡単なことも出来なくなってしまった……。ぼくにはまだまだやり残したことがあるのに……」
ぼくは彼に語りかけるわけでもなく、呪いの言葉を吐くように小さくそう呟いた。
「ええ。わかっています。だからあなたは僕を必要としたのでしょう?僕を探し求める声は、ちゃんと聞こえていました。僕がここに来たことがそれを証明しています」
「でも、本当にいいのでしょうか……。あなたが来るまで、ぼくはあなたの存在を信じ、そして探し求めていました。しかし、あなたの姿を見てしまった今、そのぼくの願いは本当に聞き届けられてもいいものなのか……」
そう言いながら、ぼくが申し訳なさそうに彼の顔を見ると、彼は顔を真っ直ぐにぼくへと向けながら、にっこりと笑ってこう言った。
「大丈夫ですよ。あなたは何も間違ったことをしようとしているわけではありません。僕が存在していること。それがあなたの行動の正当性を示しているのです」
そして、彼はぼくの左右の手を優しく重ね、ふんわりと両手で包み込むと「はじめましょうか」としっかりとした口調でぼくに話しかける。
「お願いします」
彼に向かって小さな声で答えた後、ぼくはゆっくりと目を閉じた。
目を開けると、ぼくはベッドの横にある椅子に座り、ベッドに横たわったぼくの手を両手で優しく握りしめていた。
「……ほんとう…に……。こんなことが……」
ぼくは思わず椅子から立ち上がる。
軽い
自分の身体というものは、こんなに軽いものだったのか。
思い通りに動く両手を上げたり下げたりしながら、身体の重さを感じることなく自由に動かせる感覚。それを味わっていると、いつの間にか視界が滲んでいた。
「よかったですね」
ベッドに横たわるぼく。死の間際にいるぼく。まぎれもないぼく。そんなぼくがぼくに向って一生懸命笑顔を作りながら、心の底からそう言葉をかけてくれる。
「ありがとうございます!本当に!本当に!!!」
ぼくは涙を流しながら横たわるぼくに近寄ると、ぼくの左手をギュッと両手で握りしめる。ベッドのぼくは弱弱しい力でぼくの手を握り返してくれた。
「いいんですよ。むしろ、こちらのほうがお礼を言いたいくらいです」
「え?どういうことですか?なにか裏があるんでしょうか?もしかして……」
思わず横たわるぼくの手をパッと離したぼくは、さあっと頭の先から血が引いていくのを感じた。
「いや、そういうことではないんです。安心してください」
安心してくださいと言われて、はいそうですかと簡単に言えるわけもない。この世を去るはずのぼくを引き止めたすぐ後の、こんなありえないような状態では特にそうだろう。
「ではどうして……」
ぼくはゴクリと唾を飲み飲むと、彼の言葉をじっと待った。彼は少しつらそうに小さく深呼吸をした後、なんだか遠くを見ているような顔をしてぼくにこう言った。
「実は、僕も昔『代理人』と変わってもらった経験がありましてね。というか、代理人に死を肩代わりしてもらった人間は『代理人』になるんです」
「知らなかった……」
「ですよね。僕もその時が来るまで知らなかったんです。だからそういうものなんだと思います」
その言葉を聞いたぼくは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。そして、ふと気になったことを聞いてみる。
「あの……代理人というのはそんなにキビシイものなのでしょうか……?」
すると彼はゆっくりと首を横に振りながらこう答えた。
「いえ、そんなことはありませんよ。『代理人を求める声』が聞こえる程度でしょうか?そのなかで、あなたが代理人として変わってあげたいと思った人が現れたら、さっきの僕のように変わってあげればいい。ただそれだけです。変わってあげたい人が現れるまでは、普通の生活を送り続けることが出来ますし」
「永遠の命……」
ぼそっと呟いたぼくの言葉を受けたベッドに横たわるぼくは「えぇ、そういうとらえ方もできますね」と消え入りそうな声で寂しげに答えた。
そのすぐ後、ベッドに横たわったぼくは
「ああ、そろそろ時間がきたみたいです。それでは。本当にありがとうございました」
と言うと、最期にぼくに向かってにっこりと子どものような笑顔を浮かべた後、すうっと息を吐き、ぴくりとも動かなくなってしまった。
誰も入っていないその身体からは、悲しみなんて微塵も感じられない、なんだかとても安らかな気配が漂っていた。彼は本気で終わりを探し求めていたのだろう。でもどうして。
いや、今は彼に感謝しよう。やり残したと後悔していることは山のようにある。
「こちらこそありがとうございました」
ぼくは気を取り直し、ベッドに横たわるぼくに頭を下げると、クルリと背を向ける。ふいに彼が入ってきた時に嗅いだなつかしい甘いニオイを感じた。
これからなんでもできる。そんな喜びの後ろには、彼がどうしてあんなに終わりを迎えることを感謝していたのかという不安がひっそりと潜んでいたけれど。そんな気持ちには気が付かないように、ぼくはゆっくりと病室を後にした。
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