かわら版第4号(7/16)「学びの権利は誰のものか。」
金沢市内の兼業農家に生まれました。地域に根づく、昔ながらの家です。春や秋の連休に、家族総出で田植えや稲刈りをするのが一家の恒例行事でした。
父は、とても真面目な人です。母は、穏やかな優しい人です。両親から、色々なものを与えてもらいました。
父親に「長男として農家を継いでほしい」と言われて育ちました。幼いながらに「それは大人にならないと分からない」と思っていましたが、父は私が成長するにつれ、そのことを強調するようになりました。
大学入試のとき、「いつか政治家になりたい」と父に打ち明けました。父はそれを喜んでくれましたが、同時に「家を継ぐこと」も当然視をして、私の進路にことあるごとに口に出すようになりました。
私は、それが嫌だとは言えませんでした。育ててもらった恩がある。大学も大学院も、学費を払って通わせてもらっている。もし「家を継がない」といえば、何を言われるか分からない。それがこわくて、本音を言えずに過ごしました。
22歳。大学院に進むタイミングで、「これではいけない。経済的にも自立しないと」と思い、「修士を終えたら、自分で進路を決める。家を継ぐつもりはありません」と父に伝えました。博士課程への進学も考えましたが、早く社会に出て、人とのつながりの中で仕事がしたいと、就職を決めました。
父からは考え直すよう言われましたが、「自分で決めたことなので、気持ちは変わらない」と伝えました。
その後も紆余曲折はありましたが、私自身は「自分の気持ちを貫いてよかった」と思っています。 もっと早く、学費のことなど気にせず、両親に本音を言えていたらよかったと、そんな一抹の後悔が残っています。
私は、どんな地域や家庭に生まれても、全ての人が自分らしく学ぶことができる社会を目指しています。
親子関係はかけがえのないものです。でも、そこに内在するジレンマにも、目を向けなければいけません。親は子に期待をしてしまう生き物です。そこに貧富の差はありません。そして、その期待に苦しむ子どもたちがいます。家庭環境で、進路や就職を考え直した経験のある人は少なくないはずです。
社会全体で、一人一人の自由な学びを保障することで、親と子は本音で話ができるようになると私は思います。だからこそ、私は、所得制限のない教育の無償化を掲げています。
それでも、親の大切さは変わりません。社会の一員として、子どもの学びを支えてくれているからです。
「うちの子はこうあるべきだ」という「こだわり」よりも、一人一人の無限の可能性と自発的な学びを認めるところから始めたい。
それこそが停滞する日本で、新しい可能性と人材を生み出す鍵だと、私は思っています。
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