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勝手に受け取っていい世界

現代アートもアートも文学も音楽も、建築も道も森も庭も、アートとして表現されたものだろうと、なかろうと、何かを体験したり触れたりで、何かを感じて。それが何か・somethingだったら、それはあなただけの解釈で、大事な命と思います。

なにも感じず、感動ない、としたらばそれはアートだったら、やっぱりどうも失敗しているのでしょうね。理屈や事前知識でわかるということじゃなく、強烈になにか、今の自分という存在に生々しかったり、あるいは自分の精神世界がそのまま外に現れたみたいに、溶け合うように訴えてくる、ような感じ。そこまでの「何か」ってあんまり、会わないわけですけど。でもあるにはあるんです。だからそういう興奮とか感覚を少しでも滲ませた制作物ができたら、まー、なんだろ。なんだろ、言葉はもうどうだっていいんです。あってもなくてもどっちでも、みたいに楽に思えるんです。言葉でいろいろ書いてきてなんですが、言葉って不幸の素みたいだなあって、思ってしまったことが多々あるので。きっとそれだけじゃないんだけど。よく分からんけどしあわせだな~って感じるような言葉ってあんまりないんだよねえ。だから稀にあると、貴重だし、時にはそういう言葉に会えることもあるんだなとつい最近、やっと思ったんですが。

私は、アートは結局、他人をコントロールできないように、アーティストが何を考えて制作したとしても、受け取られ方ってのは、コントロールできないわけで、(もちろん、狙いをわかってくれるようなシャープな人がいるとグッとくるのですけど、)そうじゃなく、思っても見ないような感想とか言われるのも、すごい未完成感あって有難かったりすると思います。

アートは作るだけが楽しみじゃなくて、見てくれる人がいてこそで、作ったもの見てくれた人とおしゃべりするとき、が絶対楽しいんですよ。心に残る、会話ができたりするんだと思います。妙な、引っかかること言われたりもするけどさ。

アートって結局自由にかかわるもので、自由になりたいから、自由を感じるからやるんじゃないかと。だったら、そのとき、世界も自由に解釈していいような、気がするんですよね。それは自在で、イマジネーションの世界だからこそ、なに???と聞き返したくなるような仮説を立ててもいいではないですか。

思うんですが、たとえばですけど、今さっきふとね、カルマなんて、無いんじゃないかなと。もしあっても、それは一般に言われているようなものじゃないんじゃないかと思う。恐れたり、罪悪感を感じるために存在している観念は、全部、嘘じゃないかなとか思ったりするのです。なわけねーよ!と言いたい人もいるかもですが。でもたまにさ、こういうこと、言う人いるけど。この世界ってそんな、意地悪なもんじゃないとわたしも思えたんですーきっと、もともとは。苦痛に満ちているーわけでもない、となんでか思えるのです。でもそれはーなんだ、今そんなふうになんとなく、感じていることを言葉にすると、つたないけどそんな言い方にしかならないので…

で、そういう風に言ってもいい、その自由はあるんだ、仮説を立ててみていいんだ、と思ったわけです。こういう瞬間が、きっと、アートの生きた面白さとか快感だと思う。でも、「現代アートわかんね」みたいなとこで、作り手とか含めたアートワールドも、受け取り側も、お互い固定することになんとなく、協力しあっているのかも?いやいや、これまで会って話してなんかしら小さくない感動をくれたアーティストはそんなことなかったけど。でもまあとにかく、「快」の部分に行きつくまで、ちょっと手間暇がかかる場合がある。サウナとか瞑想みたいに、ちょっと醍醐味わかるまで時間かかるというか?個人差あると思いますけども。もっと、スッとその楽しみが出てきて共有できればいいのでしょうが。

まあ、とにかく…私には特別、なんですよね。このことが特別なんです。

「ただおれにはたった一つだけ楽しいことがあるんだ」

でもあんまり特別だと祀っちゃったりするんですかね。大事だと思い過ぎると、ぼーっとその周りをまわってしまって時間が過ぎていったりとか。でも、いいんじゃね?ただぼーっとしてたのと、違うんだから。それは自分にしか・そのひとにしか、わからないんだから。そこになにを見出して、なにを作り出すかだって、自由なわけなので。鳥が一瞬で水を弾き飛ばす身震いみたいに、わりと鳥頭でいいんじゃないでしょうか。とりあたまじゃないと、それこそあんなふうに、歌えないんじゃないですか。歌いながら飛んだりとか。




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