黒よりも暗い -30-

 考える過ぎることをしないようにしてから少しはメンタルの辛さが軽減されているようだ。やはり考え過ぎると死希念慮が発生し増幅してしまう。また、勘違いしてはいけなのは考えることは大切である。問題点は容量オーバーなのにも関わらず考え過ぎることである。おそらく考えるだけでも疲労は溜まっているのだろうと思う。それとマイナスのことを考えるとますます疲労は重なるのだと思われる。さらに答えが見つからないことに長時間答えを出そうとしているのだから、ストレスもあることながら、である。しかし、筋トレ等と違うので見た目ではわからない。筋トレ等は筋肉痛でわかりやすい反応がある。つまり「過ぎる」がいけないので、それを抑え込むだけで大分違ってくると我ながら思うわけである。極端に考えることを放棄するわけではない。投げやりになったりするわけではない。大体四六時中考えてしまう体質の人間が考えないことをすることは難しいと思う。これを理解できないという話を聞くところ、やはり四六時中考える人間というものは特殊なんだと思う。だから元々この体質の人間は周囲に理解してもらおうとしてもらうのは危険だと感じている。わからないが私個人は自分自身を見つめそう思ったのである。理解してもらえるだろうと思ったことでも、この特殊な人間は理解し難く、説明は言い訳に捉えられ、結局のところ非難され離れていくのである。わかる人にはわかる。だからと言って迎合しない。それで我慢するのである。最悪、自分なりにラクに生きていくことができればそれでいいのだ。孤独であろうが孤立であろうが。

 働き過ぎたら休むのだ当然だろう。風邪を引けば休むが当然だろう。それと全く同じなのである。考え過ぎるのを休むということは。だが、全く同じと見る人はとても少ない。結局はこの体質さえひとつの癖みたいなもので主張する気はない。右利きの人もいれば左利きの人もいる。短髪が好きな人がいれば長髪が好きな人もいる。それぞれその状態でよいではないか。なぜひとつの術を見て周囲はあーでもないこーでもないと言うのであろうか。人間というものは否定することに快感を覚えるのであろうか。私には興味がない。むしろ人それぞれの工夫術というものがあれば好奇心を持って感心するものである。とにかく周囲に共感を求めるのは辞めたほうが良いよいである。

 さて、前回でも述べたが考え過ぎるのを休むのにゲームが良いらしい。何かしらのゲームを挑戦してみたい。それで考え過ぎることで起こる希死念慮など絶望の精神状態から離れることができたら大成功と呼んでもよい。もちろんそれだけで満足だとは到底言えないが、そんなことはまだまだ先である。考え過ぎることもコントロールできていない者が次のことを考えるのは愚の骨頂である。一定時間ゲームの時間を日常に取り入れることは、毎日考え過ぎるのを休む時間を過ごしているとも言える。これはある意味毎日ストレッチや筋トレなどをしているように継続の効果が表れてくるかもしれない。少しずつ考える過ぎる自分を客観視していくと、四六時中考えていた自分が悪魔に乗っ取られたように一つのことに囚われたように一か所で渦巻いていた。

 また、動画を流すのも効果があるようだ。自分で配信するのではなく、動画を見る方である。これは考える過ぎるのを休ますというより、寂しさを慰める効果と言っていいだろう。もしかすると、考え過ぎるということは寂しさを慰めることなのかもしれない。寂しさの解消することは難しい。友や恋人。これは意図してできるものではない。お金が泉が沸くの如くあり余っているいるのであれば、スナックやキャバクラにお金を注いでいたことだろう。残念ながらお金は無いのである。お金を無いながら工夫して生きるしかないのである。今は運よく動画というものがある。この動画を流すだけで寂しさは紛れる。独りではない。作業している人が私も含め複数となるのである。独りという感覚が薄れるのである。それだけでも大きな効果である。それだけ孤独感や孤立感は自分自身を恐ろしく蝕むものである。これだけでも私の歴史としてはかなり工夫した方である。努力した方である。四六時中考える人間がそれ以外のことをするわけである。前進だろう。振り返るとこのようにゲームをしたり動画を見たりしていた時期はあったのだ。こればかりする自分が嫌になって辞めてしまったらしい。それを除いた私が四六時中考え込む私となったわけだ。マイナス100からマイナス50になったようなものだ。マイナスはマイナスである。しかし、プラスが加算された。これでよいのである。揺れ動いて揺れ動いて、不器用な人間は生きていくのである。さらにこの不器用な人間は壁が幾重にもあるのである。ゲームが良いと思いながらも買うのが非常に億劫なのである。調べるのも億劫。どうしようもない生き物である。だがここは勝負時。頑張るしかないのである。周囲からみると勝負でも何でもないと呆れ果てられるだろう。それでも私自身は頑張り時なのである。頑張れそうなことは頑張るのである。周囲にバカバカしく見られてももう気にしないのである。まずはどんなことでも「やってみよう」と思ったら頑張ってみるのである。これが生きがいなのでは、とふと考えてみた。まだ生きているのである。生かされているのである。それならばゲームを買ってみようと思うのである。

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