黒よりも暗い -24-
透明とは見えない。半透明は微かに見える。見えないということは透明なのだろうか。それとも微かに見えるが興味がないから見えていないのだろうか。こちら側からはハッキリと見える。音もはっきり聞こえる。肌も感じている。黄泉の国の人間でも感じることはできるのであろうか。周囲は何も思っていないのに勝手に独り騒いでいるだけなのだろうか。何をやっても素通りする。このまま世界中流れていたい。ひとつに留まることなく泳いでいたい。哀しみは泳いでいるうちに消え去る。留まると哀しみが増すだけ。常に泳いでいたら溜まるものも薄まる。肩に力が入っているのは私だけ。周囲は気にしていない。期待してもどこで何をやっても空周り。魔法あるとすればお金。お金があると魔法がかかる。魔法は魔法。本物でなくても透明よりマシだろう。魔法の価値を知らない人間はお金の価値はわからない。お金を使わなくても、魔法を使わなくても幸せな人はそれで充分だ。だが幸せを掴めない人間だからこそお金の価値はわかる。魔法の価値がわかる。それが一時であっても。もちろん幸せを掴めるならお金や魔法なんていらない。結局何も手に入れることができない私。何も無くても存在価値があるのならば、それは木や川や土と同じかな。それでは私は風になりたい。人間として生まれても人間としての幸福を探し出せないのであれば、私は風になりたい。もう人間であることに疲れた。希望もないのである。このまま心を亡くし生きていくのは地獄である。心を亡くしているので死んでいるのも同然である。集団に身を置いていたと思っていたのは私だけだったのか。私は生きているのだろうか。何をしてもそれは仮想であろうか。黄泉の国のこととなるのであろうか。周囲には見えていないのであろうか。もうここまで来たら透明人間でよいではないか。見られないのであれば好き勝手生きられる。周囲の目を気にせず生活すればよいのである。これでもう四六時中緊張して生きる苦痛からも解放される。それでいいではないか。孤独の寂しさと引き換えに、自由気ままな生き方ができるのである。それはそれでよいではないか。孤独と連帯は水と油だ。言い換えれば、自由と束縛である。私は束縛が大嫌いなのである。束縛があるくらいなら死んだほうがマシだ。なので、孤独になるのはしょうがないのである。この世は束縛の世界だ。束縛のルールから逸脱するのであれば、この世から逸脱すると言っても等しい。すなわち、この世から逸脱するわけである。この世で孤独なのである。違う見方をすれば、孤独になったということは束縛から脱してきたとも言える。これはこれで自分を褒めたい。必死に脱してきた。抗ってきた。闘いである。傷つくことも多くあった。そのおかげで毎日倒れそうなくらい疲労がたまっている。だが脱してきたのである。孤独ばかりに目を向けるのではなく、この世のルールから脱した勇気を褒めたらどうだろうか。私自身の基準では思うところがあった。その感覚に、その信念に従ったのである。もちろん迷いもあった。精神がおかしくなりそうだった。それでも自分を信じたのである。その自分を褒めても罰はあたらないであろう。残念ながら横には人はいない。私を見てくれる人はいない。当然理解してくれる人は皆無。それでも私は生きている。生きているという事は生かされている。生きる理由があるのだ。生きる理由が無ければとっくに私は死んでいる。死ぬタイミングなんていくらでもあったのだ。死のうと思えばいくらでも死ねた。それでも何度も立ち止まったのである。諦めなかったのである。まだ先があるのだと信じているのである。見渡す限り暗闇で先がまったく見えない中、諦めていないのである。根拠はない。根拠がなくても諦めていないのである。根拠がなくても自分を信じるのである。ピンチのを乗り越えた先にチャンスがあるのである。そう信じるのである。上も下もない。右も左もない。前も後ろもない。何も無いのである。はじめから何も無い。過去は消し去った。今あるのは今の私だけである。今の私が見えないのであれば私だけである。この世は私だけなのである。孤独を感じようが元々私が独りであること知れば諦めもつくのである。孤独なのでしょうがないのに、ずっと寂しがっていてもしょうがない。独りが必然であれば独りで死ぬまで生きていくしかないのである。この世はおかしなシステムで利益不利益のアンバランスが発生すると、おかしな抵抗が起こる。普段は私が見えていない筈なのに。そういう時は何かの誤作動として無視するのが一番なのである。鴉が食べ物が欲しいといきなり脅かしてくるのと全く同じである。普段は私を無視しているのに。全く同じである。私も鴉と仲良くする気はない。鴉も私と仲良くする気もない。それでよいのである。私は私ができることをするのみである。私はとにかく文字が打てるので打つのである。恵まれて五体満足。文字を打てる環境も与えられている。これはできるのである。できるものを淡々と続けるのである。喜びは期待しない。ただ生きれるだけ生きる。生きる意味を探したこともあった。みつけられなかった。死ぬこともできたが死ねなかった。今も死のうとすればできるかもしれないが、まだ生きているので生きれるだけ生きようと思うのである。これが私の遺書にもなるかもしれないのだ。