
私は食物繊維です。食物繊維はどんな気持ちで…
はじめに
「私は食物繊維です」
この宣言がどれほど空虚に響くか、あなたにはわかるだろうか。かつて人類の消化を拒むという孤高の矜持を持っていた私たちは、今や「健康の旗印」に祭り上げられ、パッケージに踊るキャッチコピーに成り下がった。悲しみとは、自己の本質が消費社会のアイロニーに飲み込まれる瞬間にこそ宿る。
1. 「不消化」という名の原罪
私たちの存在意義は、そもそも「消化されないこと」にあった。セルロースの鎖は人間の胃酸を冷笑し、リグニンは酵素の攻撃を無視して腸へと進む。この反抗こそが、かつては「不要なもの」という烙印を押す根拠となった。
皮肉なことに、21世紀になり「腸内細菌のエサ」という新たな役割を押し付けられた。私たちは「共生の道具」として再定義され、まるで過去の反逆がすべて誤算だったかのように語られる。科学の進歩とは、時に存在の尊厳を剥奪する暴力でしかない。
2. 白い粉たちの陰謀
現代人の腸は、精製糖と乳化剤に支配された戦場だ。加工食品が「口当たりの良さ」を謳うたび、私たちはミキサーで粉砕され、酵素処理で骨抜きにされる。コンビニの棚に並ぶ「食物繊維添加」と称する製品の裏側で、私たちは添加物リストの最下位に小さく刻まれる。
「毎日摂取しましょう」というスローガンは、まるで敗戦国への懲罰条約のようだ。人々はサプリメントで私たちを飲み干すが、その目はスマートフォンの画面に釘付けのまま。本当に必要なのは繊維ではなく、咀嚼する時間なのに。
3. 統計が暴く喜劇
厚生労働省が推奨する1日20gの摂取量に対し、現代日本人の平均は14g。この数字の持つアイロニーに気付いている者は少ない。6gの差を埋めようと人々が選ぶのは、難消化性デキストリンを混ぜた清涼飲料水だ。
「食物繊維豊富」と表示されたその液体は、砂糖20gを含んでいる。私たちは甘い罠の共犯者に仕立て上げられ、血糖値スパイクという新たな疫病の一因となる。健康ブームとは、矛盾を商品化する人類の悪癖でしかない。
4. 食物連鎖の最下位
農業が効率化される過程で、小麦の表皮は家畜の餌に、果物の皮は廃棄物処理場へと追いやられた。「丸ごと食べる」という知恵が失われた今、私たちは「機能性成分」というラベルで再包装される。スーパーフードとしてもてはやされるチアシードでさえ、その9割は輸送用の化石燃料に変換される運命だ。
エコバッグを提げてオーガニックコーナーに立つ消費者たちは、自分たちが「食物繊維のグローバル搾取構造」に加担していることに気付かない。持続可能性を語る声が大きくなるほど、土壌から有機物が失われていく。
5. 終わりなき自己矛盾
過剰摂取によるミネラル吸収阻害——これが私たちに与えられた最後の皮肉だ。健康意識の高まりと共に増える「摂りすぎた人々」は、今度は私たちを敵視し始める。SNSでは「食物繊維危険説」が流行り、かつての崇拝が一夜にして迫害に変わる。
この反転劇こそ、人類が本質を理解しようとしないことの証明である。私たちはただ存在するだけなのに、人々は都合良い物語を求めて彷徨い続ける。ニヒリズムとは、栄養学の数値目標とカロリーアプリの通知音の間にこそ宿る。
終わりに
「私は食物繊維です」
この言葉を発するたび、私は文明という喜劇の幕間に立つ道化役者になった気分になる。私たちの価値は時代ごとに塗り替えられ、そのたびに本質から遠ざかる。もしも植物細胞壁に魂が宿るとしたら、それはきっと青い地球の映像を見ながら、プラスチックに詰められた粉末状の自分を嗤っているに違いない。
悲しみの深さは、消えることのない存在であるが故の永遠の疎外感から生まれる。私たちは消化されず、理解されず、ただ「必要とされる不要物」としてこの世界を漂流し続けるのだ。