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♪コンテスト参加記事 【明日の僕になります!】

<序章>

  
自ら選んだ少数派 独りよがりでカッチョイイ
  
五七五でも、韻を踏んでいるでも、リズミカルな標語でもなく。
それでも我が一度きりの人生、結果的にその後の歩み方泳ぎ方を決定づけたであろう、大きな選択。
 
時は1968年、石炭ストーブが稼働していた季節。
舞台は当時すでに老朽化が隠せなかった、二階建て木造校舎の教室内。
若干七歳の気弱男子が胆力を振り絞って放ったのが、タイトルのワンフレーズでした。
 

記憶の中と酷似した無料画像をネット上から拝借。
この話の舞台へとタイムスリップです。

  
目の前には書道担当の、おそらく当時五十歳すぎだったと思われる男性教師。
あの頃の私からすれば、完全なるお爺ちゃん世代。
銀髪を整髪剤で撫でつけた鬼瓦のような顔相と、問答無用で発射される手加減された鉄拳制裁で、
「うわあっ!? ◆◆先生だああああっ!」
高学年の番長予備軍も本気で逃げ惑う、昭和40年代の学校ではある意味お約束のキャスト。
そんな人物が結果として、私が自ら纏い続けていた『殻』を破ってくださったと考えれば、やはり『恩師』と記すべきなのかもしれませんね。
  
 

<有る無しの予兆?>

  
午前中の図画工作の授業、その日は水彩画で、テーマは『学校の風景』。
そろそろ仕上がる手前の私の画用紙を突然取り上げたのは、担任の女性教師。
私と同い年の娘さんがいらっしゃることが後に判明したことから、当時三十代前半だったかと?
女性の容姿を一方的に言及するのは時代を問わずNGですが、幼い美的感覚からしても・・・・・・以下、自主規制。
 

右手で一気に描いてみました。
画力は問わないでください & 似ています(笑)。

  
その予兆はまったく察せられず、身構えることすらできませんでした。
唐突に石炭ストーブの上の大きなヤカンを手にするや否や、拙作の表面に躊躇なく、熱湯をジョボジョボ。
当然テンコ盛りの水彩絵の具は溶けて流れ出し、ほどなく絵画とはいえない惨状へと。
教室内が瞬時に凝固したタイミングで、
油絵を描けとはいっていません。水彩画の授業です!」
小学校の児童に対する口調は基本『です・ます調』も、この行為とはあまりに不合致。
好まざる振り幅で感情を揺さぶられてしまい、泣き出してしまった女子児童の姿、今も思い出されます。
 
「新しい画用紙をあげるから、こんなコテコテに塗らずに、ちゃんと描き直しなさい」
意識的に濃く塗る画法にチャレンジしていたつもりも、指導者はお気に召されなかったらしく、その表情口調は冷徹の極みでした。
それでもここまで激怒するほど、私のお絵描きは教育上よろしくなかったのでしょうか?
 
静寂が続く教室内、業を煮やされたのか、再度私を睨みつけて期待通りのる返事を促すも、
「イヤです。自由に描いてかまわないと言ったじゃないですか?」
クラスメートが小さくざわついたのは、次の理由だったに違いありません。
 
勉強100点・運動全般0点・泣き虫いじめられっこの見本が、先生に刃向かったゾ!?
 
昨今は片っ端からNGらしい、昭和のマンガやアニメを思い出してみてください。
このようなキャラの登場人物が、乱暴者に意味も無く殴られ蹴られ、眼鏡が割れて服装ズタボロ・・・・・・大袈裟でなく、当時の私そのものでした。
そんな目立たぬ児童が担任教師に毅然と言い放った、反逆の台詞。
当時の教育現場の支配者すなわち担任教師としては、到底許容できなかったのでしょう。
 
意味不敬な倍返し以上のしっぺ返し(?)が、速達を越えたウナ電(懐)で届けられたのは、その日の放課後でした。
  
 

<指導 or 大人の威信?>

  
目の前には冒頭で触れた、書道担当の男性教師。
放課後の居残りを命じられ、クラスメートが下校後の教室に軟禁状態の私。
廊下側の窓の向こう側には、ひよこのかくれんぼ状態の人影。
 
クラスメートの私を心配 < 単純に興味津々
 
ここから私に届けられた指導を文字にすると、黒塗り三昧の機密文章と化してしまいます。
当時でさえ『指導<叱責』としか感じられなかった、差別・侮蔑用語三昧のお説教、ギリギリでこんな感じでした。
 
「オマエは左手で筆を持つが、左ギ◆チ◆(=◆ッ◆ョ)は非◆(=◆人)なんだぞ!」
 
今ならメディアが無視しないどころか、児童相談所その他の機関が動き出しても不思議ではない、教育者とされる人物の大問題発言です。
しかしながら当時の価値観として、左利きは行儀・見栄えが悪い、とされていたようでした。
賞賛に値するのは、たとえば世界の一本足打法など、非日常的な英雄限定だったのでしょう。
 

左利き = 影が薄く隠さねばならない時代があったような?

  
生まれつき左利きの私はこの日この時まで、日常動作のほぼ全てを左手でこなしていました。
箸だけは祖父母の意向で、幼稚園に入る時期に右に矯正されましたが、今日に至るまで左右どちらでも駆使できます。
 
「小学校入学からこの日まで一度も咎められなかったのに、いきなり何だよ?」
自分の内側に湧き上がり始めた経験のない感情に説明がつかず、反論の言語が見当たりません。
おそらく午前中の図画工作の授業中の顛末が、職員室内で共有されたのでしょう。
五十路の古参男性教師が三十路の女性教師に対し、正義の味方を気取りたかったのかも?・・・・・・
その後人生見聞を重ねることで、さまざまな邪推仮説を酒席の笑い話として語れるようになりましたが、相応の年月を要して当然でした。
 
とにかく左利きである私の人格を全否定すべく、陰湿に罵られ続いた印象でした。
しかしながらこれには、当時の世の中の常識価値観が大きく影響していたようです。
現在還暦前後以上の世代であれば、以下を読み進めていただくことで、当時を思い出していただけることでしょう。
 
少なくとも私の母校の公立小学校では、次のような教育指導指針であったこと、間違いありません。
 
・左利きは◆◆(差別侮蔑)とされ、怪我を負ったなど特別な事情がない限り、すべて右手で行わねば叱られる。
・たとえば体力測定時のボール遠投などの体力測定も、右手でなければならない。
・野球用グローブその他、左利き用の備え付けアイテムも、一切見当たらず。
 
これが当時の教育現場に共通していたのか、もしくは特異な閉塞空間だったのか、ここでは問いません。
 
文句や疑問や意見を口にしない、無個性で従順な子どもこそ、未来のためになる人材である。
 
まだまだ個々の特性を尊重から伸ばすなどという見識は薄く、いわゆる軍隊方式を良しとする指導が基本でした。
 
「今後文字を右手で書かないのなら、オマエは問答無用ですべて0点だ」
幾分声を荒げたように感じられたのは、教室の外で耳をそばだてていた存在に、ここぞとばかりに聞かせる意図もあったのでしょう。
黙って動かぬ私を威嚇するかのように、彼はお得意の握り拳を振り上げる姿勢を取り始めたようでした。
 
ちなみにこの時点で彼の鉄拳制裁を喰らった記憶は、わずかに一度だけ。
それも人違いから、いきなり脳天にグーパンチが振り下ろされました。
その場で私が悪いわけではないことが判明するも、そこはミスター問答無用。
詫びてくれるわけでもなく、教師である自身の間違いなどなかったことでなし崩す、お決まりの展開でした。
 

あまりに記憶が朧気で、正直微妙です(詫)。

 
集団生活が始まった幼稚園児時代から、意味もなく殴られ蹴られ続けていたこともあり、痛みに関しては、どこか麻痺していたようでした。
人間は本当に辛い時には、痛覚や苦しさを感じる感性を閉ざしてしまうとされています。
もしかすればそのような術を、無意識のうちに身につけていたのかも?
ですからこの状況下、この教師に対する恐怖感はゼロだったこと、明言できます。
 
「オマエは左ギッ◆ョのまま、◆◆になるつもりなのか!? お父さんお母さんだけでなく、私たち教師にまで恥ずかしい思いをさせるつもりなのか!? 答えなさい!」
中腰で上半身をこちらにせり出す姿勢で、目の前の大人が即答を迫りました。
 
 
僕は僕になります。
僕の大人になります。
左利きが恥ずかしい(卑しい)とは思いません。
だけど右手で書くことが学校のルールなら、これから練習します。

 
 
もちろん理路整然と答えられるはずもありません。
このようなことを訴えたつもりでしたが、どのような言葉選びだったのやら・・・・・・
「昨日まで左で書いていることを一切咎めなかったのに、いきなり何故?」
これは自ら喉元で堪えたのではなく、頭の中で上手に文言が構築できず、声にできないままだったと思われます。
 
対して鮮明に覚えているのは、自分でも戸惑うほどに大きな声だったこと。
国語の授業の音読も、体育の点呼時の返事も、休み時間の会話も、蚊の鳴くような声。
そんな気弱少年が、泣き出すでも、詫びるでも、さらには視線を逸らすこともなく、目の前の巨大暴力怪獣と対峙していたのです。
 
実はここから先、どのような経緯で解放されたのか、記憶の中に見当たりません。
冬至間近、下校を促す校内放送が流れていて、外は随分暗くなっていたような?
廊下に潜んでこちらの様子を伺っていたクラスメートの気配も、当然消えていました。
 
もちろん居残りさせられたなどと、家族に告げるわけにはいきません。
諸事情と大人の判断で、この時期両親宅ではなく、同じ学区内の祖父母宅で暮らしていた私。
これが幸いしたのか、遅い帰宅にお咎めもなく、胸を撫で下ろしていました。
  
 

<劇的変化・明日の私になリ続けるべく>

  
ほどなく学校内での私の立ち位置は、これぞ激変!でした。
 
あの◆◆先生を論破した一年坊主。
 
具体的にどのようだったかは綴るまでもなく、お察しいただける通りでした。
偶然なのか必然だったのか、いずれにせよこの一件が、そこからの私の『性格』『価値観』『人生』を、大きく変えたようでした。
 
荒っぽい長屋街で現実となった、小さな少年版シンデレラストーリー擬き。
 
一貫して謙虚な脳味噌総動員で捻り出したこの比喩表現が、一番しっくりきますね。
 

ある日の『明日の僕を目指す』僕。

 
「超一流大学卒業からエリートコース一直線のはずが、高校を追い出されるように社会に飛び出した挙げ句、こんなになってしまいましたァ!」
40年近く前の私たちのささやかな披露宴席上、酔っ払った叔父のブレーキの壊れた祝辞が止まらず、
「こんなどうしようもない青二才に大切なお嬢さまを・・・・・・お父さま!今ならまだ取り戻せますよ!」
爆笑と苦笑いが飽和状態のなか、ここで強制終了だったような?
 
 
#自分で選んでよかったこと
 
 
還暦を過ぎて数年、離れて暮らす初孫娘の成長が一番の楽しみという部分では、その他大勢の構成員の椅子を与えていただけるかな?
自らのライフスタイルを『天邪鬼(あまのじゃく)キリギリス獏ライフ』と嘯(うそぶ)く、一度きりの我が人生。
随分以上に長い年月を経たからこそ、あの日の自分の心理状態を客観的に振り返ることができています。
 
間違い無くあの場面、心の中が張り裂けるほどの葛藤がありました。
幼いなりに人生最大の選択すなわち分岐点であることを、察知していたのでしょう。
当時の多くの大人たちにとって、教師なる聖職は絶対的存在。
立派な学歴と社会的地位を有する職業との理由で、
『先生様!』
この明らかな二重敬語すなわち誤った日本語表現が、随所で飛び交っていた時代でした。
 
 
今この場面で先生に刃向かえば、学校にいられなくなるのでは?
そんなのはイヤだから、ここは奥歯をくいしばって頭を下げることが、賢い選択なのでは? 
それでも自分の居場所を奪われ、自分という存在を左利きという理由だけで全否定されるのは、やっぱり間違っているぞ!
ゲンコツ上等! 全教科0点の万年劣等生の烙印、それがどうした!?
恐れるな! 僕!!
 
 
意味なく胸倉を掴んでくるガキ大将にも、お小遣いをまきあげる上級生にも、一言も返すことができず、終始無抵抗の自分。
言いたいことを言葉にする勇気が見当たらず、メソメソ泣き出すばかりの自分。
そんな情けない姿をリーダー格の女子児童に慰められ、その姿を冷やかされ、さらに涙が止まらぬ繰り返しの自分。
 
みんなと一緒のこの空間を、このゲンコツ爺さんに奪われてたまるか!
 
おそらくとんでもない文言を声にしていたかと、今になってこの点は猛省中です。
それでも雷雨の如く差別侮蔑用語を浴びせられた以上、選択肢はひとつでした。
頼りない知識総動員で、知りうる限りのそのような文言で反撃あるのみ。
 
生まれて初めて、自分の中でリミッターが外れた瞬間のあの感覚。
鮮烈に心と体で覚えているからこそ、その後のさまざまな場面で自制できたことで、無事に2024年の小市民を生きられているのでしょう。
 

襟を正して以下のメッセージを。
   

 
あの日理不尽と思われる居残りを命じていただき、ありがとうございます。
自身の奥底に潜む勇気の取り出し方を教えていただいたからこそ、この現実社会を生きられています。
お恥ずかしい限りですが、タイミングや手法を間違え、自爆的に自らをさらに窮地に追い込んだ場面も、振り返れば数えるのも面倒です。
それでも痛い目に遭う回数分、自分なりに軌道修正を重ねつつ、自己制御の術を身につけてきたつもりです。
気づけば当時の先生の年齢を、最低でも十歳近く越えてしまったようです。
今、これを綴りながら、素直に不思議な気分です。
 
 

<終章>

  
弁明にもなりませんが、文末にチョロっと。
 
白と黒に塗り分けられた赤色灯車の後部座席に鎮座したことは、誓って一度もありません。
容姿外観ゆえでしょうか、職務質問いただいた回数は、おそらくそれなりかも?
豊富な経験を通じ、応酬話法に関しては、自分なりのテンプレートの更新が続いていますが、これは正直勘弁願いたいところです。
 
天邪鬼キリギリス獏ライフも、そろそろ最終コーナーからゴールへと。
筆も箸もハサミも両手OKも、肝心の財を成す技術は一貫して残念の極み、これぞ真の器用貧乏?
これは『NO!が言えすぎる』すなわち、口は禍の元?
  
無数の人間が構築する大人社会、無用な波風を立てない航行は、時代を問わず至難の業。
 
分相応の喜怒哀楽をとっかえひっかえ両腕に抱えつつ、明日の僕になり続ける毎日を数え続けた結果が、今これを綴っている私だとすれば・・・・・・
 
なんだかんだいっても地球上どころか宇宙の中で、最も平和で豊かなこの国に、このタイミングで人間として生を授かった幸運。
無駄にせぬためにも、ここ一番では後先考えず、懐刀(ふところがたな)が抜ける男であり続けたいと思います。
 
あの日あの場面、貴殿も私もなにひとつ間違っていなかったこと、今の私が明言します。
ご自身の信念に基づく指導を届けていただいたからこそ、反論する勇気を知ることができました。
この点は素直に感謝しています。
 

2021年初夏撮影・還暦直前の著者近影。
「自分だけ密かに・誇り高き成れの果て」
自宅での我流トレーニングで張りつめた肉体は、誓ってメタボではありません。

 
あの日反論することを選んだからこそ、こうして文字にできました。
 

  
 
※ 7/28/2024 (SUN) 書き下ろし。

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