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[備忘録]2007年3月9日8時4分
2007年の今日。3月9日8時4分頃。
家族が、いわゆるthank you事故に遭遇した。
道を譲って下さった渋滞中車両の後方100mからセンターラインをはみ出し走行した暴走車に跳ねられた。
加害者は証言を二点三点し、初動警察は真実を闇に葬った。何度警察で門前払いをされたことだろう。机を叩かれ怒鳴られ号泣し帰宅したこともあった。こうした経緯から私は個人で刑事告訴にも踏み切っている。
しかし、全ての裁判が終息しても当時の調書はのり弁状態で供述は一切読むことが叶わなかった。
再捜査が始まり、調書の矛盾が閲覧できたのは事故から1年2ヶ月後。検察に赴いた際だった。
なぜ、18年目がはじまる今日。
事故時の話を語り始めようとしたのかというと、
両親の介護をする上で、両親のこれまでの経緯を語らずには困難であるからである。
どんな人にも歩んできた人生、歴史がある。
目の前の障害や難病の症状だけの対処療法では介入が適切でない事などがどうしても起きてしまう。
現実を見ることの重要性。一般の人々にまでは求めるつもりはない。
しかし、障害や難病といった弱者のサポートを生業とする人々には、臨床心理学者であるカール・ロジャーズが提唱したカウンセリングの手法の一つ「共感的理解」をもう一度考えて欲しいと思う。
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交通事故の話は、私自身もフラッシュバックを起こすリスクを含む。
それに、また友人が去って行くだろう。幾度となく重い話を嫌う人々から
重ーい重ーいと言われたり、既読スルーされたり、遠巻きにされてきた。
しかし、これが現実である。これが現実起きているのである。
知らぬ存ぜぬで暮らしていきたい人は人で、その自由意志を尊重する。
だが、知らなかった、悪気がなかったは、社会に出てからは通用するものではないと私は考えている。なぜなら自分自身の行動発言には責任が伴うからである。
ヒンズー教の教えにも、マザーテレサの言葉にも出てくるように。
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