「将进酒」で古典引用と思しきところなどchatGPTに訊いてみた。

※読んで分からなかったり訳されなかったりした部分を個別にchatGPTに訊いてみた。今後も追加あり。

(15章) 「錦衣衛 」
[1]: 参考資料に関連して、"錦衣衛職能略論"、"錦衣衛"、"錦衣衛選簿"があります。実際には、錦衣衛の選抜には8つのカテゴリーがありますが、このストーリーでは4つのみを紹介しました。

[2]: 錦衣衛の任務は実際に「掣簽」(くじ引き)で決定され、情報漏洩を防ぐためにくじ引きで決められます。

[3]: 大象が川で水浴びするという全市民が見守る出来事についての詳細は、「帝京景物略」で確認できます。

錦衣衛は非常に特殊な組織で、情報収集には速記術師や画家、医者、獣使い、銀細工師、鍛冶師、火薬師、さらに翻訳者も含まれています。彼らは非常に高い選抜基準を持ち、多くはトップの才能を持っています。通常、長い脚、高身長、優れた筋力が求められます。劉和平の『大明王朝1566』によれば、錦衣衛の要求事項には「虎臂蜂腰螳螂腿」(虎の腕、蜂の腰、カマキリの脚)とあり、「一日に160里以上速く走ることができる」と言われています。2丈(約6メートル)の高い壁を手でよじ登り、喉を切り裂くほどの力を持ち、日々の任務は睡眠を削るほど厳しいものです。
(作者による注釈を翻訳)

(19章) 「風習夏暑夜、月掛碧樹梢」
中国の文学や詩の伝統において、美しい自然景色や感情を表現するための詩的な表現です。この句は、夏の暖かい夜、碧い木のてっぺんに月がかかっている情景を描写しています。具体的な意味よりも、美的な感覚や詩的な雰囲気を伝えるために使われる言葉です。詩や文学では、風景や感情をより魅力的に表現するために、このような詩的な表現が頻繁に用いられます。

(25章) 「騎虎難下」
中国の成語で、直訳すると「虎に乗ることは難しい」または「虎に乗っていると降りるのは難しい」などと言えます。この成語は、一度難しい状況に巻き込まれると、それから抜け出すのが非常に難しいことを指します。つまり、始めたことを中途半端にやめることが難しく、一度始めたら最後までやり遂げるべきだという意味を持っています。

(29章)  「胎投」
古代中国の信仰や占いに関連する用語で、主に生まれつきの運命や宿命を指します。これは、人が生まれる前に天によって決まると考えられていました。胎投は、個人の性格、寿命、幸福、不幸、成功、失敗などに影響を与えると信じられていました。
胎投の考え方は、儒教や道教、中国の伝統的な占い術などに影響を与え、個人の生涯に関する予測や判断に用いられました。ただし、これは古代中国の信仰体系に基づくものであり、現代の一般的な用語ではありません。

(30章) 「夜壺」は古代中国の習慣に関連した用語で、夜間に使用する便器や尿器のことを指します。特に、寝具から起き上がらずにトイレに行くために使われる容器を指すことが多いです。この文脈では、沈澤川が蕭馳野に対して、「夜裡還要我為二公子抬夜壺嗎?」と言っているのは、もし蕭馳野が夜間にトイレに行く際に、彼のために夜壺を持ってくるように頼まれる可能性があるかどうかを尋ねています。これは軽口や冗談の要素が含まれている表現です。

(46章) 「護駕」(ごか)は、古代中国の皇帝や高位の王族が、自身を危険から保護し、警護するための命令や呼びかけです。文字通りには「君主(駕前)を護る」という意味です。この用語は、特に皇帝が身の安全を確保するために周囲の武装警衛に対して発令されたり、緊急の状況での叫び声として使用されました。

(61章) 「丫鬟」(やかん)は、中国の伝統的な社会制度における用語で、主に富裕な家庭や宮廷で使用されていた女性の召使いや侍女を指します。彼女たちは家事や手伝い、主人や家族の世話をする役割を担いました。丫鬟はしばしば若い女性であり、家庭内での雑用や奉仕を担当しました。
この用語は特に古代中国や清代の社会に関連しており、現代中国ではあまり一般的ではありません。しかし、歴史的な文学や映画、テレビドラマなどで依然として使用され、中国の歴史や文化における重要な要素の一つです。

(76章)
「否則髀肉複生」という表現は、中国語の成語や言い回しで、直訳すると「そうでなければおしりの肉が再び生える」のような意味になります。しかし、これは比喩的な表現で、一般的には「悪事を続ける」といった意味で使われます。つまり、離北の狼の子が悪事を続ける可能性があるという警告や忠告を含んでいます。

(112章) 「小院」
古代中国において、小院(しょういん)は一般的に家屋や宮殿の敷地内にある小さな庭園や中庭を指す用語です。小院は主要な建物の周りに配置され、通常、中庭や装飾的な庭園を囲むように配置されていました。これらの小院は休憩や散策のための場所として使用され、美的価値が高い装飾や植栽が施されていることがよくありました。小院は一般に静かで美しい場所で、家庭内でのくつろぎや文化的な活動に利用されました。

(131章) 「潤物細無聲」は、中国の成語(ことわざ)で、「物を潤すことは微細で音も立たない」という意味です。これは、潤いや補給を提供する行動が静かで控えめであるべきだという教訓を表現しています。同知が茨州にとどまる理由として、その地域を補強し、発展させることで効果をもたらすという、静かで効果的な手法を指しています。

(193章) 「物尽其用,卸磨杀驴は、中国の諺で、「物事を最大限に活用し、研磨を終えたらろくでなしのように捨てる」といった意味です。物事や人を使い倒してしまう様子を表現しており、無駄なく賢明に物事を処理することを奨励する表現です。

「心狠手辣」は、中国語で「冷酷で非情、手段が厳しい」といった意味です。この表現は、手段を選ばずに冷徹で非情な態度や行動を指し示します。その人が他者に対して冷淡で、手段を選ばない強硬な姿勢を表現する際に用います。

(204章)「我妻尚年若、憐語慰卿卿。」は、古典的な中国の詩や文学で見られる表現で、直訳すると「我が妻、まだ若く、優しい言葉で慰めよう」といった意味です。このような表現はしばしば愛情や思いやりを表現するために用いられ、年若い相手に対して思いやりと愛情を込めて接する様子を描写しています。

(237章)
「有朝一日我會圈禁李氏丟掉的鹿」について。
古代中国で「鹿」はしばしば君主や政治的な指導者を象徴するための比喩として使用されました。特に、鹿は善徳や賢明さを表す象徴とされ、君主が賢明で善良であるべきことを示すために使われることがありました。したがって、この文の中で「鹿」は政治的な文脈で使用され、何かしらの政治的なメッセージを伝えるための比喩として理解される可能性があります。

「詩」について。
古代中国において、「詩 」は詩文の形式で書かれた文学作品を指します。
…(中略)…  
詩は古代中国の皇帝との関係にも深く関連しています。中国の歴史的な詩集の中でも最も有名なのが「詩経」(しきょう)であり、これは周代の王たちが詠んだ詩が収録されています。皇帝はしばしば詩経を通じて自身の統治哲学や価値観を表現し、国家のイデオロギーや倫理的な原則を強調するために詩を用いました。そのため、詩は王朝の統治や文化において重要な要素となりました。
一方で、儒教の思想においても詩は重要であり、孔子やその後の儒教の学者たちは詩経を通じて徳や倫理、人間関係についての教訓を引き出しました。詩は古代中国の文化・政治・思想の重要な一部であり、多くの教訓が詩の中に表現されています。
( つまり「詩」「詩書」「詩を授けられる」こととは、「帝王学」を授けられるということだと考えてよさそう )

(233章)
「蘭生玉階淡然之,舟渡苦海驅無涯」について。
「蘭生玉階淡然之」は古典中国語の詩からの一節で、日本語に訳すと「蘭は生じ、玉階は淡然とす」または「蘭が生じ、玉階は穏やかである」となります。この詩は、美しい景観や自然の調和についての表現として使用されることがあります。
「舟渡苦海驅無涯」この文は古典中国語の詩からの一節で、日本語に訳すと「舟で渡り、苦海を越え、果てしない旅路を進む」または「船を渡り、難しい海を越え、果てのない道を進む」などとなります。この詩は冒険や困難を乗り越える精神を表現しています。

(239章)
「金樽同汝飲,白刃不相饒」 は中国の古典文学や歴史小説などで見られる成語で、一般的には「金樽で一緒に酒を飲んだ仲でも、白刃の戦いでは互いに容赦がない」といった意味合いがあります。この成語は、親しい間柄であっても、時と状況によっては争いや競争が避けられないことを指摘しています。飲み友達や親しい関係であっても、困難な状況や対立が生じれば、それに応じて戦わなければならない、という警告の意味も含まれています。

(247章)
「萬乘之君」は、中国語で「万乘の君主」または「万乘の君主たる者」といった意味です。この表現は、非常に偉大で強力な君主や支配者を指すために使用されます。

(250章下)
「士可殺、不可辱」は中国の古典でよく見られる格言で、主に忠誠や名誉に関連しています。このフレーズは、士人(君主に仕える忠実な臣下や学者などの知識人)に対する行動規範を表現しています。

具体的には、この格言は次のような意味を持っています:
- 「士可殺」は、士人が必要な場合には命を捧げて奉仕し、必要な行動をとるべきだという意味です。つまり、忠誠心と献身を示唆しています。
- 「不可辱」は、士人は名誉を守り、自己尊重を保つべきであるという意味です。つまり、恥辱を受けてはいけないということを強調しています。

この格言は、士人にとって、君主や社会に対する忠誠と尊厳の両方を重要視する姿勢を表現しています。彼らは名誉ある死よりも屈辱的な状況を受け入れることを選ばないということを示唆しています。
(市街戦で高仲雄が襲ってきたビアンシャ騎兵に言った言葉)

(250章下)
「厳霜過境」について。
直訳すると「厳しい寒さを越える境界」または「厳しい霜の境界」のような意味になるかもしれませんが、具体的な文脈や作品における意味は、それが使用された文脈に依存します。特定の文脈や作品で使用される表現である可能性が高いため、詳細な文脈に基づいて理解することが重要です。
( 何かの格言や慣用句という類いではなく作者の創作と思われる )

(254章)
「一切有為法、如夢幻泡影,如露亦如電,應作如是觀」
「いっさいのういのほう むげんほうようのごとし つゆのごとくまたかみなりのごとく まさにかくのごときかんをなすべし」(金剛般若経)
一切有為法、如夢幻泡影,如露亦如電,應作如是觀 は仏教の教えから来た言葉で、以下のような意味があります:

- 「一切有為法」は「すべての現象や存在」を指し、物事や事象のすべてを含みます。
- 「如夢幻泡影」は、「夢のように幻想的で、泡や影のように仮想的である」という意味です。つまり、すべての存在や現象は一時的で現実的ではなく、一時的な幻想であることを強調しています。
- 「如露亦如電」は、「露のように儚く、電光のように瞬時に消える」という意味です。これは物事や存在の短命さ、一瞬のうちに変わることを指摘しています。
- 「應作如是觀」は、「これを観察すべきである」という教えの締めくくりです。つまり、すべての現象や存在は一時的で幻想的であるという視点を持ち、この現実を超越する理解を追求すべきだと教えています。

この言葉は仏教の中で、世界の無常性や仮の性質を強調するために使用され、修行者に現実をより深く理解し、苦しみから解放されるための洞察を養うのに役立ちます。
(姚溫玉が既然の言葉を受け、返した仏教の言葉。)

(259章)
「旌旗十萬斬閻羅」とは、中国の武術や文学に関連する言葉で、一般的には英雄的な業績や功績を称える表現として使われます。直訳すると「旌旗(勝利の旗)を掲げ、十万の閻羅(鬼神)を斬る」という意味です。これは武功や戦闘における優れた成果を讃える表現であり、勇気や力強さを強調するために用いられます。また、文学や芸術の文脈でも英雄的なキャラクターや物語に関連して用いられることがあります。
(伊昌、伊老の形見の刀にここから3文字取って沈澤川が名付けた。費盛所有)

(260章)
舌上有龍泉,殺人不見血」
一般的には言葉巧みに人を欺くことや、言葉で人を傷つけることを指す成句です。この表現は、言葉の力が強大で、人を害することができることを示しています。文字通りには、「舌(言葉)の上には龍泉があり、人を殺すときに血を見ない」という意味になります。つまり、巧みな言葉で相手を攻撃し、その結果として相手に直接的な害を与えることなく、その影響力を行使することを表現しています。

「企者不立 跨者不行」
「企者不立,跨者不行」は、中国の古典文学や哲学に由来する言葉で、その出典は『孟子』(Mencius)という儒教の古典書にあります。具体的には、孟子の中で「滌滌者不足以跨人,潔潔者不足以與人」(原文:滌滌者不足以跨人,潔潔者不足以與人)という文言が見られます。
この言葉の意味は、非常に清廉で高潔な人間であることが、他人と共感し、他人に影響を与えるための基本的な条件であるということを表しています。言い換えれば、自分自身が倫理的で高潔でなければ、他人に影響を与えることができず、他人を指導することもできないということです。
この言葉は、儒教の価値観や倫理観を強調し、人間関係や社会において高潔さと倫理的な品性の重要性を強調しています。個人が高潔であることが、他人に良い影響を与え、社会全体をより良くする手助けになるという考え方が込められています。
(易しく言うと「つま先で立つ者はずっと立ってはいられず、大股で歩く者は遠くまで行けない」。蕭洵が沈澤川の問いに答えて)

(262章)
「狂士」は、一般的には「狂気を帯びた者」「風変わりな人物」などを指す言葉で、その人物が普通の社会規範に合わない独自の考え方や行動を持っていることを示します。狂士は時には天才的な洞察力や行動力を示し、また時には一般的な理解を越えた独自の価値観を持っていることがあります。この言葉は、異端的であるが故に他者と異なる視点から物事を見ることができる人物を称える場合にも使用されることがあります。(李劍霆が沈澤川を見出した斎惠連を評して狂士と言った)

(263章)
「痞子」は中国語で「ピーズ」(pīzi)と書き、一般的には不良少年や問題児などを指す俗語です。日本語においては、同様の意味を表現するために「不良少年」「問題児」「チンピラ」などの表現が使われます。
(禁軍について蕭馳野が語ったとき、外から見えるイメージについて表現した。)

(267章)
「木秀于林,風必催之;堆出於岸,流必湍之」 (選自李康‧《運命論》)
この句は、中国の諺で、直訳すると次のようになります:

- 木秀于林:林の中で優れた木は育つ。
- 風必催之:風がそれを促進するでしょう。
- 堆出於岸:土砂が岸に積み重なります。
- 流必湍之:流れは急流となります。

この諺は、優れた才能や資質が適切な環境にあるとそれが成長し、発展することを表現しています。言い換えれば、適切な条件や環境が与えられると、優れた人や物事は輝きを増し、成功するという意味です。


(268章)
「社稷」は、中国の伝統的な概念で、主に天地の神霊や国家の守護神を指します。これは国家や社会全体を指す象徴的な概念で、安定と繁栄を象徴しています。一般的には、天地や神霊に対する国家や統治者の信仰と、その結果としての国家の平和と繁栄が「社稷」の概念に結びついています。

「松月生夜涼、風泉滿清聽」は中国語の詩的な表現で、日本語に訳すと次のような意味になります:
「夜に松の月光が涼しさをもたらし、清らかな泉の風音が耳に心地よく響く」
この表現は自然の美しさや静けさを称賛し、詩的な感覚を表現するために使用されます。

(280章)
「得道者,天經地義」は日本語に翻訳すると、「道を得る者、天に通じ地に義あり」となります。(薛修卓に向かっていく沈澤川を例えて)

「棱刺(Língcì)」は、中国の武器で、通常は非常に鋭利で細長い刃を持つ短剣または短い槍のような武器です。この武器は中国の武術や戦闘技術で使用され、主に突き刺す攻撃に適しています。棱刺は素早い攻撃と刺突技術に特化しており、戦闘において高度な技巧を必要とする兵器の一つです。(蠍子が沈澤川を襲ったときに使用)



(番外編)
「大雁を贈る」 古代中国において、婚礼の儀式で「大雁を贈る」ことは、夫婦の誓いや愛情を象徴する重要な習慣でした。大雁は長い間一緒に飛ぶ鳥として知られており、夫婦の結びつきと協力を表現するために使われました。この儀式は、夫婦が協力し、共に飛び立つことを誓い合うという意味合いがありました。また、大雁は季節ごとに渡りを行う鳥であり、夫婦の間での季節ごとの愛情を示すシンボルでもありました。
通常は男性側から女性側へ大雁が贈られました。これは夫が妻に向けて愛情や誓いを表現する一環として行われた儀式でした。男性が大雁を贈ることで、彼は妻に対する誓いと愛情を示し、夫婦の協力と共に未来に進む意思を表明するのに使われました。

「拜天地」は中国の伝統的な儀式で、主に結婚式や祭り、特別な機会、あるいは一定の行事で行われます。この儀式は神に感謝し、神聖なものに祈願し、神の加護を願うことを目的として行われます。

「拜天地」の儀式では、一般的に次のようなステップが含まれます:

1. 「天」への拝礼:まず、空を指して神や宇宙に感謝の意を表します。
2. 「地」への拝礼:次に、大地や自然に感謝し、祝福を求めます。
3. 神への拝礼:神々や宗教的な側面に感謝の意を表します。
4. 賓客への拝礼:結婚式などの場合、親戚やゲストに感謝し、祝福を送ります。

「拜天地」は中国の伝統的な価値観と宗教的な要素に基づいて行われ、家族の結束や祝福を強調する重要な要素です。それぞれの地域や宗教によってやり方が異なることもありますが、一般的に中国の文化と伝統の一部として受け継がれています。

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