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「人それぞれだからね」でいいのか?

 Xで回ってきた慶應文学部の入試問題が非常に興味深かったので、勝手に文字数も設問も気にせず、課題文を読んで思ったことを書いてみる。

課題文

「世界文学の膨大さと多様性は確かに圧倒的である。しかし、私たちはその多様性を楽しむことができなければ生きている甲斐がない。その普遍性を信じられなければ、相対主義のニヒリズムの深淵に飲み込まれてしまう。世界文学を読むことは、多様性と普遍性、「こんなにも違う」と「こんなにも同じなんだ」の間の、永遠の往復運動ではないかと私は考える。

「多様性」に対するモヤモヤ

 この世の中に、一つとして、全く同じ文章というものはなく、それは文字だけで見れば一緒だとしても、その背景に渦巻いている何かというのは、絶対に異なっている。多様性というと、同性愛者を認めろ!だとか、異常性癖を認めろ!みたいな運動として表れがちだけど、なーんかおかしい気がする。多様性を認めるということは、その記号の数を表しているのではなくて、それぞれの人の底で蠢いている何か流動的なものを、様子を見るに留めておくということなんじゃないか。別にそこに共感がなくてもいい。共感しようとするからおかしなことが起きる。自分たちが共感できないものはおかしい!異常だ!みたいな姿勢になりかねない。他の人の中で蠢いている何かを手で取ろうとせずに、ただ眺めている。

 もちろん、最近の「多様性を認める」という風潮によって、同性愛に関する法整備などが動き出していることは確かで、その整備によって徐々に同性愛的な人が、法的には生きやすい社会になっていると思う。周りの人も、同性愛的な人を咎めるなんてことはしないはず。そういった意味で同性愛的な人を同性愛者として記すことを完全に否定することなど決してできない。

 ただ同性愛的な人というか、行動をする人というか、同性を好きになるということ自体を、同性愛として括ることの危なっかしさみたいなのがある気がする。なんか同性を好きになるということも、面で見ればただの一面に過ぎないのに、同性愛者という面でその人を勝手に覆い尽くしてしまうみたいな。本が好きな人だとしても、同性愛者。山登りが好きな人だとしても、同性愛者。まあこれは行き過ぎた例だろうけど、社会の中で珍しいとされる特徴をレッテルとしてその人に貼りたくってしまう、みたいなことも起きている気がするんだよな。

 少し話を戻す。文学において、同じ文章で描かれた作品が2つあったとしても、それぞれ書く人が違えば、それは違う作品なんだと思う。文字にしたら一緒だけ。これは忘れちゃいけない。多様性というものと、少しばかり距離をとって、のめり込み過ぎない姿勢も大切なのかな。

「人それぞれだしね」で逃すか!

 ただ、問いの中にもある通り、「普遍性を信じられなければ、相対主義のニヒリズムの深淵に飲み込まれてしまう」。これは、「まあ多様性だしね」「人それぞれだよね」という一言ですべてが片付けられるようになってしまうと、どこに留まっていればいいのかわからなくなる、みたいなことな気がする。人の考えていることや、その裏に蠢いている何かに対して、無理に共感する必要なんてないだろうし、100%理解できるということは、同じ人物でない限りできないことだが、それをそうとして自分とは完全に退けてしまっていい訳ではないと思う。相対主義やニヒリズムの危険性についてはまた別の記事で考えてみよう。

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