赤い靴【歌い継がれてほしい童謡】 エッセイ
赤い靴👠 捏造?童謡シリーズ
NHT (ニューハーフトランスジェンダー)公共ブログ局「歌い継がれてほしい童謡」のお時間です。
進行役の安桜芙美乃です♪
どもです(*´∀`*)ノ
ということで、現在も横浜の波止場、山下公園にいる女の子。
今回は日本の童謡【赤いくつ】であります。
暫しお付き合いをお願い致します。
赤いくつは、1922年(大正11年)の作品。
作詞は野口雨情、作曲は本居長世で発表された童謡です。
2006年(平成18年)に文化庁と日本PTA全国協議会が日本の歌百選に選ばれました。
野口雨情の赤い靴
🎶赤いくつ はいてた 女の子🎶
という誰でも一度は聴いたことあると思われる童謡♪
詩を書いたのは野口雨情。メロディは本居長世。
以前、ご紹介した【雨降りお月さん】の詩を書いた野口雨情の作詞でもある赤い靴。
【赤い靴】←ミミちゃんレコード
1.赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
2.横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
3.今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
4.赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える
童謡、赤いくつは1922年(大正11年)に発表されました。
また、、、
生まれた 日本が 恋しくば
青い海 眺めて いるんだろう
偉人さんに 頼んで 帰って来(こ)
という5番目の歌詞が、昭和53年に発見されたそうです。
アンデルセン童話
もう一つの赤い靴は、ハンス・クリスチャン・アンデルセン作の創作童話になります。
「孤児カーレンと赤い靴」が原題と云われています。
若しくは「みなし子カーレンと赤い靴」とも云われています。
1845年の創作作品
『新童話集 妖精の丘、赤い靴、ヒツジ飼いの娘とエントツ掃除屋さん』に収録されて出版されたそうです。
アンデルセン童話 赤い靴 あらすじ
貧しい少女カーレンは、ずっと病気だった母親と二人っきりでした。
貧しい家庭だったようで靴を持たない彼女は、ある日足に怪我をしてしまいました。
足に怪我をして動けないカーレンを見た、靴屋のおかみさんはカーレンをたすけてあげました。
そして靴屋のおかみさんは、カーレンに赤い靴を作ってあげました。
その後、カーレンのお母さんは看病も虚しく死んでしまいました。
孤児となってしまったカーレンは母親の葬儀に赤い靴を履いて出席しました。
それを見咎めた老婦人は彼女の境遇に同情して養女にしたのです。
老婦人のもとで育てられたカーレンは、町一番の美しい娘に成長しました。
ある日、靴屋の店先に綺麗な赤い靴を見つけたカーレンは、老婦人にだまって赤い靴を買ってしまいました。
カーレンは、その綺麗な赤い靴を履いて教会に行きました。
実は教会の決まりで教会に入る時は無彩色の服装でなければいけないのです。
赤い靴で教会に入ったことが、老婦人にバレてしまいカーレンは老婦人に怒られてしまいました。
それでもカーレンは教会に赤い靴を履いていってしまいます。
ある日、教会の出口に杖をついた兵隊のおじいさんが、カーレンの赤い靴に話しかけました。
そしてカーレンはお気に入りの赤い靴を履いて、老婦人が病気で寝込んでいるのに看病もせずカーレンはお気に入りの赤い靴を履いて舞踏会に出かけてしまいます。
病気の老婦人が死の床についてしまったときにさえ、カーレンは赤い靴を履いて舞踏会に出かけてしまうのです。
すると不思議なことにカーレンの足は勝手に踊り続け、靴を脱ぐことも出来なくなってしまいました。
カーレンは死ぬまで踊り続けるという呪いをかけられていたのでした。
夜も昼も踊り続け、カーレンは眠ることもできず踊り続けなければなりませんでした。
赤い靴のことばかり考えていたカーレンは、老婦人の看病をしなかったばかりか、亡くなってしまった老婦人の葬儀にも出席できず、赤い靴も脱げず踊り続けて身も心も疲れはててしまいました。
カーレンは呪いを解くために、首斬り役人に自分の両足首を切断してほしいとおねがいしました。
すると切り離された両足と赤い靴はカーレンを置いて、踊りながら遠くへいってしまいました。
両足を切断したカーレンは義足を作ってもらい、これまでの自分の行動を恥じました。
カーレンは自分の恥ずかしい罪を償うため、不自由な体で孤児や教会のボランティアに励む毎日を送る事になりました。
一回は悔い改めたと思い教会へと行こうとしましたが、自分の足を離れても踊り続けている赤い靴に阻まれ、教会には入れずに、カーレンは再び自分の罪を自覚するのでした。
それでも孤児やシスターから厚い信頼を受けながら、カーレンは充実した毎日を送りました。
引き取ってくれたにもかかわらず、老婦人へ恩返しができなかった懺悔の祈りを捧げていたある日、赤い靴に阻まれ、足を踏み入れる事が出来なかった教会へと場所は突然変わり、眼の前にバラを持つ天使が現れ、罪を赦されたことを知ったカーレンは、天へ召されていきました。
「これがアンデルセンの赤い靴」
後悔先に立たず‥‥アンデルセンはこれを言いたかったのだろうか‥‥。
アンデルセンの赤い靴を踏まえて、童謡「赤いくつ」を見ていきましょう。
【童謡 赤いくつ 定説】
静岡出身の(岩崎かよ)の娘(佐野きみ)が童謡赤い靴のモデルだそうです。
「きみちゃん」は、母親である「岩崎かよ」と共に静岡で暮らしていたが、「かよ」は未婚で「きみちゃん」を産んで育てていたことで、周りから陰口を言われて居たたまれなくなり北海道へと移り住んだのでした。
そして、「かよ」は「鈴木志郎」という男性と知り合い結婚したのです。
「きみちゃん」が3才になったとき、「鈴木志郎」と「かよ」は社会主義活動の一環で北海道の平民農場へ入植するのですが、北海道での開拓生活は熊も出るし雪も多く厳しい生活のため、幼い娘の「きみ」を義理の父である(佐野安吉)の仲介でアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に養育を託したのでした。( ̄□ ̄;)!!マジカ…
それからしばらくして、ヒュエット夫妻は本国アメリカへの帰還命令により母国へと帰ることになる。
まだ幼い「きみちゃん」も連れていくつもりだったヒュエット夫妻でしたが、その時「きみちゃん」は当時不治の病である結核に冒されていたのでした。(¯―¯٥)ウゥ‥‥
結核で弱っている「きみちゃん」をアメリカまで連れていくのは忍びない、ということでヒュエット夫妻は「きみちゃん」を東京は麻布の鳥井坂教会の孤児院へ預けることになってしまったのでした。
( 。゚Д゚。)オイオイ ナンデソウナル‥
「きみちゃん」は、母親「かよ」に会うこともできないまま明治44年9月15日に9才で孤児院で亡くなってしまいました。(´;д;`)カワイソスギル…
「きみちゃん」の母親「かよ」は、その間志郎との間に子供を授かっていた。
乳児を育てながら志郎とかよは開拓に挫折していたのでした。💢😠💨コドモツクルナラ ナンデキミチャンヲ テバナシタ💢
明治40年に「かよ」と志郎は、札幌の新聞社に勤める社会主義詩人の野口雨情と知り合い親交を深めてゆき、かよは娘の「きみちゃん」のことを雨情に話したのです。
「きみ」は宣教師に連れられてアメリカへ行ったと…。
しかし、この時には「きみ」ちゃんは東京の孤児院に居たのです。母親がいるにも関わらず…しかも病気で苦しみながら…。
そして、「かよ」の話を聞いた野口雨情は【赤い靴】の詩を書いたのであります。
これはもしかして…「志郎」が、「かよ」の連れ子が嫌で「きみちゃん」を養女として、かよの義理の父である「佐野安吉」と口裏を合わせて宣教師夫妻に預けちゃったのか?とか考えてしまったワタクシなのでしたが…。
実は…この【赤い靴】という童謡は捏造(作り話ではないのか?)という説が持ち上がっていたのです。
それというのも、昭和48年に「志郎」と「かよ」の三女で「岡 その」が『私の姉は【赤い靴】の女の子』という事を新聞に投稿したそうです。
当時、北海道テレビがこの記事に注目して5年にわたる調査の結果、「岡その」の投稿の事実を認めることができて、北海道テレビにて【ドキュメント.赤い靴はいてた女の子】というドキュメンタリー番組を製作し放送したそうです。
そして、昭和54年に【赤い靴】を調査した記者がノンフィクション小説として【赤い靴はいてた女の子】を出版して、この小説が【赤い靴】の定説となったそうです。
しかし、この定説に(待った❗)を唱える人が現れたのです。
昭和61年、静岡日本平に母子像が立てられた際に地元静岡放送が【流離の詩.赤い靴はいてた女の子】を製作する際に、構成台本を依頼された作家が【赤い靴】には矛盾点があり、それを追及することになったそうです。
そして、矛盾点を追及した結果…平成19年12月に【捏造、履いてなかった赤い靴】を出版して定説には根拠がない、と批判したそうです。
「きみちゃん」と「佐野安吉」との戸籍上のこと。
宣教師の名前…正しくはヒューエットであり、「きみ」は2才の時に孤児院に預けられていて佐野が、きみを孤児院へ預けていた。
その時北海道にいた宣教師とは接点があったとは言えない。
「かよ」と「雨情」の間には、言葉をかわす機会はそれほど多くなかったはず。
「かよ」が「雨情」に自分から進んで未婚で子供を産んだと告白することも考えにくい。
野口雨情の【赤い靴】は空想社会主義の挫折の隠喩とするべきで、記者の取材不足からくる想像で埋めた捏造だと言っているのであります(^_^;)
もちろん、赤い靴を調査した記者は偽りはないと反論。
また、矛盾点を追及する作家は、「かよ」の話を聞いて「雨情」が赤い靴の詩を書いたというのは、「かよ」の思い込みによる自慢話を娘「その」や記者が飾り立てたもの、と批判したそうです。
実在したヒューエット夫妻、粉飾、「かよ」が雨情に自分の話をしたのか、「鈴木志郎」が「雨情」に「きみ」のことを話をしたのか、雨情」の方から志郎に取材したのか、「きみ」のことを「雨情」が知ることができたのか、等の検証は不十分らしい。
また、野口雨情の親族からは実際のモデルは無かったと主張されている、とも言われています。
野口雨情自信も【赤い靴】は「きみ」がモデルだとは一言も言っていないそうです。
定説への意義、検証、解釈の相違、論争等を読んでいくと…
【赤い靴】は、「きみちゃん」がモデルではないようにワタクシ思います。
若しくは、「雨情」の耳にほんの少し「きみちゃん」の事が「志郎」や「佐野安吉」の言葉の中に偶然入っていたとしたら、無意識に「きみちゃん」を想像で膨らませて、それを表現したいことの喩えとして使う可能性はあるかもしれない。
そうなると「雨情」は意識せずとも【赤い靴】は、「きみちゃん」をモデルにしていたことにもなるのかも…
ただ、そのストーリーは違うものだとも思うのであります。
定説に基づいて建てられた像は6つあります。
母子像 静岡県日本平 (1986年)
きみちゃん像 東京麻布十番 (1989年)
母思像 北海道留寿都村 (1991年)
赤い靴親子の像 北海道小樽 (2007年)
赤い靴少女像 北海道函館 (2009年)
赤い靴親子像 青森県鰺ヶ沢町 (2010年)
他にも、横浜と姉妹都市のアメリカ、カリフォルニア州サンディエゴにも少女像が2010年に建てられたそうです(*^^*)b
像の歴史は意外と古くないんですね🎵
そして論争はまだ続いているのだろうか…。
もう、想像なら創造作品でいいじゃん、とか思うワタクシであります。
赤い靴の「きみちゃん」像がこんなにあるとは知らなかったです。
野口雨情の【赤いくつ】には「横浜の波止場から船に乗って」という歌詞が論争に出てこないのもなんかおかしい。
結局は、マスコミが話を創り上げたお話しなのかも知れません。
孤児院とか実在した宣教師(キリスト教を広めるため、外国、特に異教国に派遣される伝道者)は、アンデルセンのお話しから持ってきたのではないのだろうか。
と言うと‥‥問題の根源は「岡その」?いや、話しを膨らませたマスコミ?
野口雨情の赤いくつに出てくる【横浜の波止場から船に乗って】という歌詞が創られたのは、横浜は外国人、外国船が多かったから?
なんかスッキリしないお話しになってしまいました。
まぁ、野口雨情はモデルは「きみちゃん」とは言っていないそうなので、ノンフィクションで書物を出したりするからややこしくなるのかもね(*^^*)
まぁ、私は横浜人なので山下公園の赤い靴の少女が野口雨情の【赤いくつ】に一番しっくりくると思います😊
結構長文になっちゃった(^_^;)
でもさ、アンデルセンの赤い靴って血で赤く染まった‥‥とか都市伝説みたいのもありそうな気がする(^_^;)
ホントは怖いアンデルセンの赤い靴‥とか💦
最後まで読んでいただきありがとうございました😆💕✨
また来てね(^_^)/~~♪
NHT公共ブログ局【ホントは怖いあかいくつ】じゃなくて童謡【赤いくつ】の考察を終わります。
進行役の安桜芙美乃でした。
またね♪
赤い靴 記事一部抜粋 Wikipedia
表紙画【赤いくつの少女】PhotoAC