犠牲…【詩、エッセイ】
空…人は憧れ飛ぶことを覚えた
海…人は好奇心から海を渡り海に潜る事を覚えた
大地…人は山を切り開き、安住の地を求めた
だけど…
人は空を飛べるようになっても鳥の気持ちは分からず
人は海に浮かび潜る事が出来ても海に住む者達の気持ちは分からない
人は大地を削りながら足元に咲く小さな花の存在さえ気付かなかった‥‥
人は未来を見つめながら前ばかりを見てきました。
自然界において、命あるものが他の命を繋ぐ為に犠牲になるものがいる。
誰かが生きていく為の犠牲…
自然界にも社会にも様々な形で犠牲になるものがいるのだと思う…
私一人が生きていくだけでも、どれだけの犠牲があるのだろう…
自然界は人を創り、人により壊されてきた…
壊す者がいて守る者がいる
犠牲を伴い繋がる命
これも自然界の生態系の一つなのかな…
だけど、人は誰でも感謝の気持ちを持ち合わせている。
肉食の虎は生きていくのに必要な量しか食べない。
その強いはずの虎の毛皮欲しさに、人による乱獲で今では虎は絶滅寸前といいます。
人も動物、タンパク質を採るためにあらゆる肉を食べるのは自然の摂理。
毛皮や象牙はお金になるので欲しいままに乱獲するのは自然の摂理に反すること。
日本でも、今となってはあまり必要ではなくなった鯨肉の事が近年話題になりました。
IWC(国際捕鯨委員会)からの日本脱退。
鯨を食するのは、日本では400年に渡る食文化ですが、今では一般の方々もほとんど鯨肉は食べていないと思われます。
正直、私も鯨肉は食べていません。
そう考えると必要なものではないもの、とも思います。
では、何故日本はIWCを脱退して批判を受けながらも調査捕鯨を続けるのか…。
そこには政治、癒着、お金、議席を守るための政治家とか、自分の選挙区が捕鯨と強いつながりのある場所なら、議席を守るため、とか政治やお金の匂いがプンプン┐(´д`)┌
まぁ、諸外国から激しい批判を受けながらも、日本の捕鯨は継続してできるように乱獲はしていないようです。
とはいえ、400年に渡る食文化、そこに仕事として携わる方々もいる。そこを踏まえて考えれば、調査捕鯨は海の生態系にも一役かっているので遠洋調査捕鯨は無くなるにしても日本近海ではまだ続くのでしょう。
ただ、忘れてはいけないのが、鯨への感謝として日本各地に鯨塚や鯨の墓や碑があること。
日本人特有の畏怖や感謝の心根などから発生したとも言われ、偶然の捕鯨により鯨の利用がされた地域や捕鯨を生業にした地域において捕鯨や鯨に纏わる様々な信仰、伝統芸能、祭礼、絵画、書籍などが、各地域で発生し伝承され、現在においても育まれ地域振興として催されているようです。
(Wikipediaより抜粋)
私の住む神奈川県にもあります(*^^*)b
日本には、食べ物、使用物への供養があります。これは日本人特有な感謝の気持ちの現れであるといいます。
針供養、箸供養、着物の帯供養、人形供養、包丁供養、等様々な供養が古くから受け継がれています。
殺虫剤を作る会社には、ゴキブリやハエ等の碑があるといわれています。そして年に一度、虫供養が厳かに行われるそうです。
一寸の虫にも五分の命がある、ということで、ゴキやハエ、試験の為の様々な虫の犠牲により、自分達の仕事が成り立っている、という感謝の気持ちがあるそうです。
日本人特有の感謝の気持ち、ありがとうから生まれる供養は日本人の心の基板といえるでしょう。
だからこそ日本人の感謝を表す、ありがとうの「おもてなし」は外国人の方々に好感をもたらすのでしょうね。
一見、無機質のような物にも、人が使えばその人の魂が宿ると昔から云われています。
例えば、ちょっと高い箸はかなり長持ちします。そして箸は家族でも自分の箸は決まっている家庭が多いのではないでしょうか。
ワタクシ、数年前に漆塗りの高級箸をもらった事がありまして、罅割れるまで何年も使えました。
その箸には本当に愛着が湧き、罅割れた時は、哀しいというか‥虚しさのようなものがありました。
この時、本当に自然に「今までありがとう」と言葉に出したことがありました。
その後はゴミとして出すこともできず、今となっては何処に仕舞ったのか分からないまま、今も家の中にあるのです。
人の愛着が湧いた物には、魂が宿るという事は確かにある、とワタクシ想うのであります。
櫛供養、帯供養、着物供養、眼鏡供養、箸供養、鏡供養 等 人と密接な関係のある物の供養はたくさんあります。
そこにある様々な犠牲があることを、私も忘れないようにしたいです。
【ありがとう…】
言葉にできなくて
ただ…照れ臭くて…
言えなかったことは
胸の中に燻り続け
思い馳せれば
ただただ…
感謝の気持ちで溢れてる
ありがとう…
安桜芙美乃