(3-4)地に足を【 45歳の自叙伝 2016 】
出戻り
その頃、たまたま連絡を取り合った社員から「人が足りないから渋谷に来てみないか?」と言われ、大した収入もなかった私は拾われるようにして、その渋谷の店で働き出した。今思えば、前の新宿の店と同じ会社の同じ事業部であるのに、再び働くにあたっても、きちんと挨拶回りも出来ない、まったく未熟な自分であった。そしてこのことは、すぐさま新宿の店にも知れ渡ったことと思うが、しばらくは静かに渋谷で働かせてもらっていた。
三ヶ月ぐらいして、新宿で私を採用してくれた前の店長が、突然渋谷の店にやってきて「お前、ここで何してんの?」とニヤッと嫌味っぽく笑って言った。「すみません、渋谷で働かせてもらっています…」と言うしかなかった。すると「来週から新宿な!」と一方的に決め付けてきた。驚いて渋谷の店長の顔を見ると「直江君、短い間だったね、ありがとう」と苦笑いをしていた。
こうして急遽、新宿に連れ戻されることになったのだが、実は行き先は前の店ではなくて、新しく百貨店にオープンしたばかりの喫茶店とのことだった。しかもこの話を勝手に決めた前の店長は昇進して支配人代理(以降「代理」)となっていた。そして、その権限かどうか分からないが、この話は喫茶事業全体の人員配置を勘案しての異動(アルバイトで異動の対象では無かったのに…)のようだった。
・ ・ ・ ・ ・ ・
新しい仕事場
新しい百貨店の店も忙しいところであったが、前の店とは全く雰囲気が違っていた。新店だけのことはあって綺麗で随分と洒落た作りだった。ただ、百貨店のテナントとしての様々な制約や決まりごとがあって、何かと気を遣うことが多く、そこは面倒に映った。現場の上司も、今まで会ったことが無いようなタイプだった。馬力があって、熱く真面目な人だった。スタッフは上司を除いては、概ね若い連中が多く、その若さからなのか、明るい雰囲気を感じていた。
百貨店の店で働き出すにあたって、上司がシフトについて希望が無いか尋ねてくれたとき、私は今までの経緯を話して、借金があること、出来れば社員にさせて欲しいことを伝えた。すると「目一杯働かせてやるけど、すぐ社員にしてあげられるかは分からない。そこはお前次第。とにかく店で頑張れ、根をあげたら承知しないからな!」と思いっきり使ってやると言ってくれたのだった。私はそれで十分有難かった。そして「よしやってやる!」と久々に内側からエネルギーが湧いてきていた。
その百貨店の店には私と同じ年の社員がいて、大そう仕事に打ち込んで頑張っていた。彼は雰囲気としては体育会系そのもので、相当に自分本位であったが、仕事には熱い奴だった。年齢が同じと言うことと、代理の意向で異動してきた経緯もあって、初め彼は「お手並み拝見」と言った風で距離感があった。ただ、仕事については、しっかりと教わるべきものをきちんと教えてくれて、むしろそこは清々しさすらあった。彼もまた私とは全く別のタイプであった。
それから仕事が終わると、上司の誘いもあって三人であったり、店のスタッフを連れてであったりで、本当に良く呑みに行くようになった。酒を呑みながらいつも熱く仕事について語り合って、時に上司に叱られたり、時にお互いが何を思っているか確認しあったり…と。とどのつまり、如何に仕事に対し真剣なのか…と言うことをぶつけ合っていた。
百貨店の店に来てしばらくすると、自分の立ち位置みたいなものが見えて来ていた。勢いがあってムードメーカーな彼と、冷静で安定感のある私(一応、そう言われたことが実際あるので、そのまま書くが…)とが、店を回すのに上手く機能していることを感じると、何と言うか、仕事をしているのが心地良く感じたりした。上司も私ら二人を可愛がって使ってくれたのが態度で伝わってきて、とても嬉しく感じていた。また、彼と呑みに行く機会も増えていき、どうやって人を育てるのか、どうやってスタッフの連携を良くするのか、どうやってモチベーションを高めるのか…などと本当によく話をした。
・ ・ ・ ・ ・ ・
活きた読書とするために
こういった日々にあっても、その役に立つようにと読書も依然として続けていた。スタッフを高いモチベーションで、有機的に機能させる為にすべき事は何か、よく本屋に寄って、歴史の中にその答えを求めようとしたことも多々あった。特に印象的だったのは、「如何にして人は動くのか」と言う冷徹な分析と、その為の君主のあり方を説いた「君主論」のマキャベリだった。
同時に「組織の盛衰(堺屋太一)」という本を読んだときには、組織が陥る病や幾つかの失敗実例を知ることにもなり、成功体験よりも失敗から何を学ぶかが大事…と言うことを感じさせられもした。そして、この失敗と言うキーワードから次に「失敗の本質/日本軍の組織論的研究」と言う本を読むことに繋がっていった。
これらの大きなテーマとは不釣合いな感は否めなかったが、この頃は何かと本で読んだ内容を私自身と現場に照らして眺めていた。そして、今まで団体競技のように集団で何かを成すということが少なかった私としては、少人数であっても、集団が成果を出す為のハウツー…のような体験と、その感覚めいた経験値に対して、どこか、ウィークポイントであると自覚するようになっていた。それでも実際の仕事は現在進行形なのであり、私の経験不足が現場の足かせにならないように…と言う、ある種の強迫観念がこれら読書を進めさせた一側面でもあった。とにかく過去を読み解いて、現実に活かすことを目的にした数々の書物は、それまで好んで接してきた東洋思想とも相互作用をして、ますます染み入っていくようだった。
「失敗の本質/日本軍の組織論的研究」で、更に痛感させられたのは日本軍敗退の真相だった。これは子供の頃にプラモデルを作りながら、いつも苦々しく思っていた、連合艦隊壊滅の過程を辿ることともほぼ同意であり、勢い、日本として、その過った戦略のあり方が、どの時点から始まったのか、必要に知りたくなるきっかけともなった。※下記記事「中学校卒業まで① - 歴史への関心」に歴史好きになった原点を載せています。
その後、日本の近現代史(幕末から東京裁判まで)を徹底的に調べ上げたい衝動に駆られていった。様々に読み進めていく中で、特に胸に残ったのが「落日燃ゆ(城山三郎)」だった。主人公・広田弘毅の「自ら計らわず」と言う姿に感動して、以降しばらくの間、城山文学の虜になり、「男子の本懐~浜口雄幸と井上準之助」「雄気堂々~渋沢栄一」などを読み、その繋がりで渋沢栄一の「論語講義」をかじるようになり、次いで佐藤一斎の「言志四録」「重職心得箇条」などにも目を通すようになっていった。
こうして、端から見ればどこにでもありそうなありふれた現場であっても、組織ととらえて再認識するとき、それまで読み進めてきた書物たちが様々な角度から絡んできて、今この瞬間、この組織にあって、歴史や先哲から学んだことを如何に活かすべきか…と、これは特段、大袈裟に言おうとしているのではなく、私個人の中にあっては本当にそのように考えていたのだった。
・ ・ ・ ・ ・ ・
陸軍と海軍
当時は毎晩のように仕事が終わると呑みに連れ出された。上司の誘いでなかなか断ることが出来ず、嫌ではなかったが、ほぼ強制的だった。終電を逃して、歌舞伎町のカプセルホテルで泊まることも多かった。サウナに入っても仕事の話をしてくる上司に、その熱血さに敬服しつつも、早く解放して欲しいな…と内心思うことも多々あった。
ある時、上司が彼のことで話があると私を呼び出した。聞けば、彼を批判する声を他の連中から聞くようになって、どう思っているかを尋ねてきたのだった。そして、上司が居ないときの彼をフォローして、店を上手く回せとのことだった。彼は仕事に熱くなり過ぎるあまり、彼自身の思った通り進まないと、店の質が落ちると強く思い込んでいる節があり、もともと体育会系のノリで勢いが良いのもあって、他のスタッフに高圧的な態度に出てしまっているようだった。
元来がアルバイトの多い職場である。仕事に対するモチベーションは始めから高いわけではなく、アルバイトへの指導は、君主論にある「飴と鞭の使い分け」が有効にも思えていたが、彼のその「鞭」は空回りしてしまっているように見えた。彼自身もどこか気付いていたのだろう「直江さん、だらけさせないように、あまりあいつら(アルバイト連中)の話に乗らないでくださいよ!」と釘を刺されたこともあった。
仕事の質を上げるとは、とにかくお客様に喜んでもらうところが第一義であるが、接客業の場合、店の雰囲気と言うのが肝心で、やはり良い店には良い従業員が居るものなのである。そして、その雰囲気が同じ質で安定して提供されることは大きなポイントでもあった。それ故に指導的立場にある者は、自身のお客様への接客意識はもちろんのこと、従業員に対しても常に見本であり、価値判断の基準であり、モチベーションの源泉である必要があった。
しかし、私は上司の言われるように機能することが出来ずにいた。その理由の一つは、自分も他の連中と同じような気持ちになりつつあったということだった。もう一つは、彼が女性スタッフに手を出し、どうもトラブルとなっていて、それが幾人かの知ることとなり、彼の良さや求心力が低下し、他のスタッフの気持ちも離れつつあるということだった。そうすると、その「鞭」がさらに空回りするところとなり、彼には次第にイライラがつのるようで、店でも荒れ始めていた。
程なくして、上司に呼び出されると「あいつ、どうしたら良いと思う?どう思ってる?」と尋ねてきた。思わず「日本の陸軍と海軍に似てますね…」と言うと、上司は思いっきり吹き出して「お前、随分デカく出たな!」と大声で笑った。それでも、私としては大真面目であって、陸軍は彼、海軍は私の喩えであり、歴史的には海軍は陸軍の暴走を止められなかったのであり、ことここに至っては陛下(上司)のご聖断に頼るほかありません…というのが本意だった。
・ ・ ・ ・ ・ ・
広田弘毅「落日燃ゆ」解説/赤松大麓
続きは以下の記事です。
ひとつ前の記事は…
この自叙伝、最初の記事は…
この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?