(3-3)ある転落【 45歳の自叙伝 2016 】
人間学の月刊誌「致知」
復帰してから少しすると店長の異動があった。新たに赴任してきた後任の店長は、前任の店長の後をやり辛そうにしていたが、休憩などで一緒になると、何か話がよく合った。ある時、十八史略や孫子の話をしたことがあって、後日、後任の店長は「致知」という雑誌の一年間定期購読をプレゼントしてくれたのだった。
この「致知」は主に東洋思想を土台にした自己啓発誌で、一言で言えば、温故知新といった内容で、多くの経営者や学者、宗教者がそれぞれの立場と見解で、様々に人間の原理原則について寄稿を行っていた。
この「致知」を読んでいくと、興味をもっていた東洋思想の世界がさらに広がって、新たな安岡正篤先生の著作や関連の書籍も知るようにもなった。「致知」で知った真摯な仕事への姿勢、そういった経営への関心、深みのある人間像への憧れ…など、大枠で言うところの「人は如何に生きるのか」というテーマに釘付けになっていった。
また、後任の店長からは「修身教授録/森信三(致知出版)」という本も頂いて、読めば、生きるための原理原則について考えさせられた。そして、いつしか、経営者となって人生を成功させたい…と再び夢を見るようにもなっていた。ここで、当時、気になっていた言葉で、安岡正篤先生の「 知識・見識・胆識 」を思い出したので、少し長いがお付き合い頂きたいと思う。
知識・見識・胆識
当時、二十歳そこそこの私には「知識」にしか成り得ない内容であったが、記憶というものは有難いもので、過ぎてみれば、また違う味わいをもたらしてくれる。そして、今とこれからにも、これらの記憶はきっと有効に活きる…と思いたい。
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感動を伝えるビジネス
そんなある日、アルバイト仲間の一人から「良い話があるから、一度話を聞きに来ないか?」と言われ、のこのこついて行ったセミナーがあった。その会場で行っていることは、大雑把に言えば「健康になれる浄水器で人の役に立って(要するに売って)、人生を成功させよう!」と言うコミュニケーションビジネスの勧誘だった。
若いというのは経験少なく、まったく思慮が足りないもので、私はリスクなど殆ど考えずに、良いことだけ目の前にチラついて、気付けばその世界に飛び込んでいた。まず浄水器を使ってみて、その感動を伝えていけば良いということだったが、お金が無かった私は生まれて初めて借金をしてその浄水器を購入した。働いていないのに、お金が手元にやってくるということに、何とも言えない罪悪感と嫌悪感が沸き起こったが、もうその時はこのビジネスを始める動機がそれを上回っていた。
そのビジネスを始めてすぐに気付いたことがあった。それは紹介者や上位者は、横浜のとある高校の友人同士であって、皆、私と同じ年齢の連中であったと言うことだった。同じ年であったが、アップと言うことだけで、何か強制的に従属させられているような感覚に私は陥っていった。真夜中に電話が鳴ったり、突然に呼び出されたりすることが重なり、それまでの仕事にも影響が出そうだった。段々と身体も辛くなっていき、気持ちにも余裕が無くなっていった。
それでいて、同世代と言うことで、集まれば、拙い高校上がりが、精一杯の大人びた会話をして、どうやって成功するか、不釣合いな夢を語らって、やる気だけで繋がっている、実際は烏合の衆であった。
そのやり取りは、それまで読んでいた伊藤肇シリーズや「致知」、安岡正篤先生の世界には程遠く、まったく中身の希薄なものだった。今まで読んできたもの…、それらが、ある種の理想が、アップ連中に気持ちがついて行かなくなる理由となって、ついにはこのビジネスそのものに嫌気がさしていった。ただ、このビジネスの主催団体が、ビジネスを成功させる為の自己啓発セミナーを開いていて、その内容は世間知らずの私には役に立つことは多かった。
特に印象に残っているのは「 総ての結果の源は自分 」と言うフレーズだった。他にもいろいろ勉強にもなったのだが、それでも結果が出なかった私は、効果の薄い自己投資の為に借金作ったようなもので、一年ぐらい頑張ってみたものの、やはり続かなくなってそのビジネスから離れていった。
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行き詰って気づいたもの
この間、アルバイトも、大学も、どんどんいい加減になっていった。ゆくは翌年の大学中退に繋がり、普通免許の講習も期限ギリギリのバタバタとなった。あれだけ打ち込んでいた新宿の仕事もいつしか辞めてしまい、新しい全く別の会社でのアルバイトを転々とすることになった。そんなことだから、一人暮らしも行き詰まり、結局は実家に戻ることになってしまったのだった。
振り返れば、無駄に大きく「夢」を持つばかりで、何の「実」を得るところ無く、そんな中身の無い自分を見て見ぬ振りであった。その時は、臭いものに蓋をするように「こんなはずはない…」と慰めるのが関の山で、しばらくは悶々と反省の日々を過ごした。そしてそんな私に残ったのは借金とお金や時間を注ぎ込んだ浄水器だった。
こうした時間を過ごしながら、生々しく感じていたものは、しっかりと「実」を取らなければ駄目…という実感だった。具体的には信用されることであり、それを維持することだった。そして、ひとつひとつ地に足をつけて行くしかない…と思うようになっていった。ただ実際は、まだ何者にもなっていない不甲斐なさの真っ只中にあって、そのことを何一つ実践できているわけではなかった。
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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