個別最適な学び
最近「個別最適な学び」という言葉を聞かない日はありません。
そこにもつながる投稿を自分のためにもしておこうと思います。
私は、初任の頃に研究熱心な学校に勤務することになりました。研究会も行っていたので、研究会が近づいてくると夜中まで準備をすることもたくさんありました。
指導案なるものを作成して、一時間のための指導案をどんな言葉を使うかで議論を続けることもありました。これはとても勉強になりました。
そんな中年々生まれてくる違和感がありました。
「自分の授業では、クラスの全員がわかったと思える授業は不可能」という気持ちが湧いてきたのです。
楽しい授業はできるんです。盛り上がる授業もできるんです。
でも、授業が始まる前から答えがわかっている子、その授業だけでは絶対に課題を達成できないであろう子がクラスの中にいるんです。
その子たちに45分の中で同じ課題を同じように達成していくのは私にとっては不可能でした。
答えがわかっている子は、こちらの都合に合わせてくれます。でも、答えはわかっているのです。それでいいのだろうか悩みました。
中には、文字を読むことすらままならない子もいました。もちろん今は特別支援学級があるので、そのような制度を利用することはとても素晴らしいことです。
でも、特別支援に在籍するしない関係なくいろいろな子がクラスにいるのは間違いないです。
今のままの授業では、全員の子に価値のある授業は無理なのでは?と思うようになりました。というか無理でした。
そんな気持ちでもやもやしていましたが、なんとか自分の力を高めて乗り越えようと考えました。
いろんなところへ出かけてカリスマ教師の授業を見に行きました。少しでも技を盗みたいと思いましたが、なんだか途中でくたくたになってしまったんです。実力不足といえばそれまでですが、とてもじゃないけど自分では無理と感じることが多かったのです。さらに一つのクラスの中で成長した「ふり」をさせているだけなのでは??と思ってしまう自分がいました。(うまく言語化できませんが)
そして、またもやもやしていました。
次に出会ったのが学びの共同体でした。これは!と思いました。すぐに本を買って読みました。毎日毎日読みました。
が、頭の悪い私にはいまいち理解ができませんでした。本は「ふむふむ」と読めるんです。納得もするんです。ただ、実際に授業にいかせなかったのです。
次に出会ったのが『学び合い』でした。この考えが私の中では今もベースにあります。ここからの取り組みは今話題になっている「個別最適な学び」や「協働的な学び」につながります。
最近話題になっているこれらの「学び」が今後どう進化していくのかが楽しみです。
私は今授業をする立場ではありませんが、若い先生たちが実践する「学び」を全身全霊でサポートするつもりです。これからの子供たちのために。
もっと詳しく書きたいところもあるのですが、ここまでにします。