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百次のサムライ11 -薩摩平氏と石塔- 成枝氏氏神都八幡宮祠
はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの石塔をめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。
平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。
成枝氏氏神都八幡宮祠
成枝氏関係のものと思われる氏神(明治期の祠)が永利町の竹やぶの中に祀られています。
成枝氏は薩摩平氏の内、薩摩地方を納めた薩摩忠直を祖とする一族です。この祠は、南北朝時代に当地に移住した成枝氏左衛門尉(なりえださえもんのじょう)関係のものと思われます。成枝氏は薩摩氏の嫡流ですが、左衛門尉が誰かは分かっていません。
南北朝時代の1339年6月、「碇山城合戦」が起こりました。伊集院氏、渋谷氏、入来院氏のほか、谷山・指宿などの薩摩平氏の南朝方が、島津貞久の居城である碇山城を攻めました。
貞久は上洛中で留守でしたが、酒匂久景、河田慶喜、権執印俊正、延時法仏らのほか、成枝左衛門尉も北朝方の島津軍として籠城しました。南朝方は籠城軍の命綱となる水の手を夜襲して攻撃しました。
この戦で、籠城側が苦戦している最中、新田八幡宮の方角から鏑矢の音が2、3度鳴り響いて南朝方に落ちました。籠城側は神の助けだと勇み立ち、南朝方は恐れおののき退却しました。
戦は北朝方島津軍が勝利しましたが、1343年、成枝氏は恩賞のことで不満があり隈之城の地を去って永利山田に移住し、それから成枝氏は振るわなくなりました。
この祠は、都八幡神社から分社した成枝氏の氏神のようで、正面上部には、右から「都八幡宮分社」の文字が見えます。
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【参考文献】
川内市史 石塔編(1974)川内郷土史編さん委員会
川内市史上巻(1976)川内郷土史編さん委員会
史跡めぐり~碇山城跡散策~(2023.5)薩摩川内市川内歴史資料館
ほかの薩摩平氏の石塔についても随時アップする予定です。