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百次のサムライ18 -薩摩平氏と城跡- 吹上町中草田の栫ノ城跡
はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの城跡をめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。
平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏(いざくへいし)と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。
吹上町中草田の栫ノ城跡(かこいのしろあと)
鹿児島県日置市吹上町中草田の字栫に「栫ノ城跡(かこいのしろあと)」はあります。城主については今のところ情報がなくてよくわかりません。栫ノ城跡は、高さ20メートル以上の断崖 の上にあり、谷間には一本の小道があるだけです。周囲は田畠に囲まれた要害の地で、伊作平氏関連の城の中でもかなり古い城跡と考えられています。外観からはスギ植林地となっており、遺構は残っていないようです。
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栫は「柵」や「垣根」を意味し、外敵から身を守るための防御施設が設けられた場所です。要害の地に城・砦を築き周辺に栫を設けてその中に農民を住まわせたようです。
城跡の畑の中央には「アイブ様」と呼ばれる崩れた墓石があり、その昔、耕作の時あやまって人糞等がふれて大いに祟りがあったという伝説があり、付近の人々が藁葺きの社を造って祭るという行事が伝えられているようです。
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平安時代後半、天永3年(1112)にすでに伊作郡の郡司に補任された伊作平次郎良道が伊作郡を領していました。この地は日置南郷(へきなんごう)とよばれ、おとなり伊作郡(伊作荘)とともに古くから伊作平氏一族による開発が行われた場所です。城跡周辺には永吉川とその支流大田川が流れており、当時から稲作に大変適した環境だったものと思われます。
平安時代末期には伊作氏の同族阿多忠景(あたただかげ)の娘婿となった阿多宣澄(あたのぶずみ)が郡司として当地を領していましたが、鎌倉時代の建久3年(1192)、宣澄は平家謀反に関わった一人とされて鎌倉幕府から所領を没収(平家没官領)されました。
その後、島津忠久(しまずただひさ)が地頭となりましたが、実際に現地に赴任したのは弘安4年(1281)、伊作荘と日置荘の地頭職となった島津氏分家の初代伊作久長になってからでした。同年は弘安の役(2回目の元軍襲来)した年です。
しかし、日置南郷は万揚房覚弁(まんようぼうかくばん)(桑波田氏祖)が郡司として知行することとなり、以降、桑波田氏が日置南郷の領主となりました。
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【参考文献】
吹上郷土誌(2003)吹上町教育委員会